指導者達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/10/20 12:22 UTC 版)
著名なピューリタンの牧師トマス・フッカーとマサチューセッツ湾植民地知事ジョン・ヘインズが、1636年にハートフォードまで100人の人々を引率し、これがコネチカット植民地の創設者と考えられることが多い。フッカーが1638年5月31日に政府の原則についてその信徒達に行った説教が、その年後半にコネチカット基本条例を書いた者達に影響を与えた。この基本条例は、1630年代のコネチカットに住んでいた唯一人の訓練を積んだ弁護士であるウィンザーのロジャー・ルドローが起草した可能性があり、事務官トマス・ウェルズによって公式記録に書き写された。 ダベンポート牧師と商人のセオフィラス・イートンがニューヘイブン植民地の創設者と考えられている。ニューヘイブン植民地は上記のように1660年代にコネチカット植民地に吸収された。 植民地初期では、知事がその任期を続けて務めることができなかった。このために20年間というもの、ハートフォード出身のジョン・ヘインズとエドワード・ホプキンスが交互に知事を務めた。1640年代と1650年代にはやはりハートフォード出身のジョージ・ワイリーズ、トマス・ウェルズおよびジョン・ウェブスターが短期間知事の座に座った。 マサチューセッツ湾植民地創設者の息子、ニューロンドンのジョン・ウィンスロップ・ジュニアがコネチカット川近辺に点在した開拓地をまとめて単一の植民地にするときに重要な役割を果たした。ウィンスロップは1659年から1765年までコネチカットの知事を務めた。また1662年勅許取得の提唱者でもあり、この勅許でニューヘイブン植民地をコネチカットに併合した。ウィンスロップの息子フィッツ・ジョン・ウィンスロップも1698年から10年間知事を務めた。 ロジャー・ルドローはオックスフォードで教育を受けた弁護士でありマサチューセッツ湾植民地の副知事であったが、この地域を開拓する権利を高等裁判所に請願した。ルドローは土地の権利に関する論争を収めるためのマーチ委員会を宰領した。フッカー、ウィンスロップなどとの協力で1650年コネチカット基本法の起草者とされている。ルドローはコネチカットの初代副知事だった。 ギルフォードのウィリアム・リートはコネチカットに併合される前のニューヘイブン植民地知事を務め、ジョン・ウィンスロップ・ジュニアが1675年に死んだ後はコネチカット知事も務めた。両方の植民地知事を務めた唯一人の者だった。 ミルフォードのロバート・トリートは、コネチカットがエドマンド・アンドロス卿によるニューイングランド自治領に併合される前後で知事を務めた。その父、リチャード・トリートはこの植民地の初めに特許をうけた者の一人だった。 この植民地では18世紀に一連の強力な知事が現れ、それらの者は死ぬまで毎年再選された。フィッツ・ジョン・ウィンスロップが死んだときは、ウィンスロップのニューロンドンにおける牧師、ガードン・ソルトンストールが知事に選ばれた。ソルトンストールはコネチカットで知事に選ばれた唯一の牧師であり、ピューリタンの牧師は公職に就けないという一般にあった誤解を覆した。ソルトンストールが死んだとき、副知事であるハートフォードのジョセフ・タルコットが知事になった。タルコットが死んだときも、副知事だったミルフォードのジョナサン・ローが知事職を継いだ。ジョナサン・ローが死んだときは、ウィンザーのロバート・ウォルコット副知事が知事になった。ウォルコットはアメリカ独立宣言の署名者オリバー・ウォルコットの父であり、1754年のスペイン船事件におけるその役割の故に選挙で落選した。ウォルコットの後継者、ノーウォークのトマス・フィッチは七年戦争の間植民地を指導したが、フィッチも1766年の印紙法拒否で強く出なかったために落選した。フィッチを破って当選したハートフォードのウィリアム・ピトキンは自由の息子達の支持者でもあり、また元知事ロジャー・ウォルコットの従兄弟でもあった。ピトキンは1769年に死に、レバノン出身の商人ジョナサン・トランブル副知事が後を継いだ。トランブルもまた自由の息子達の支持者であり、独立戦争の間も知事に選ばれ続け、1784年に引退した。この年はアメリカ合衆国のイギリスからの独立を認めたパリ条約調印から1年後だった。
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