インディアンを教育し改宗させる宣教団
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「バージニア州の歴史」の記事における「インディアンを教育し改宗させる宣教団」の解説
イングランドの宗教的指導者達はインディアンに対しキリスト教(より具体的には聖公会の宗教的習慣と信仰)をもたらす伝道者としての義務があると感じた。ポウハタン族は文字を持たなかったので、彼らの「誤ってる」精神信条は教育と読み書きができないことの結果だという仮説があった。それ故に、彼らにこれらの技量を教えることはイギリス人が宗教的習慣における「啓蒙」と見るものを論理的にもたらすことであり、インディアンを教会の囲いの中に入れることは政府の一部となり支配する形態ともなった。 バージニア植民地の指導者達は、農園主の息子達やインディアンのために長い間高等教育ができる学校を待ち望んだ。この目的のために1618年頃にヘンリカスで恒久的大学を造る試みが開始され期待されていたが、1622年のインディアンによる虐殺で失敗し全開拓地から消えたまま、再建されなかった。 およそ70年後、植民地議会と他の著名な個人の奨励で、ブレア牧師がヘンリカスの初期計画に倣ったと歴史家達が信じる計画を準備し、1691年にイングランドに戻り、新しいカレッジについてイングランド王に請願した。 ポウハタン族は1644年の最後の大きな抗争の後で大きく数が減り保留地に限られていたので、その支配はもはや植民地の優先事項ではなかったが、彼らを教育してキリスト教化するという宗教的原則はなお続けられた。おそらくは1693年に王室勅許を受けた新しいウィリアム・アンド・メアリー大学に対するロンドンの支持と承認をうまく獲得する道徳的動機づけとなっていた。しかし、そこのインディアンを教育しキリスト教徒に改宗するという試みは、学校がつくられてしまうと小さくなり短命に終わった。
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