インディアンエージェント
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 13:53 UTC 版)
「ヘンリー・スクールクラフト」の記事における「インディアンエージェント」の解説
1822年にミシガン州スーセントマリーでアメリカのIndian agentに任命され、民族学的調査を開始した。現在のミシガン州北部、ウィスコンシン州、ミネソタ州の部族を担当していた。妻のジェーン・ジョンストンからオジブウェー語を学び、部族の伝承や文化の多くを学んだ。 スクールクラフトは、1826年から1827年の冬にジェーンとともに作成した家族雑誌The Muzzeniegun, or Literary Voyagerを作り、友人に配布した("muzzeniegun"はオジブウェー語で本の意)。この雑誌はほとんど彼自身の文章から構成されていたが、妻や地元の人の文章もいくつか含まれていた。単発でしか発行されなかったが、スーセントマリーの住民に広く配布され、その後デトロイトやニューヨークなどの東部都市にいるスクールクラフトの友人にも配布された。ジェーン・ジョンストンは"Rosa"というペンネームとペルソナとしてLeelinauを用いてインディアン文化の様々な側面について書いた。 ミシガン準州の議会に選出され、1828年から1832年まで務めた。1832年、オジブワ族とダコタ族(スー族)の間で続いていたトラブルを解決するために、再びミシシッピ川の上流部へ行った。平和を維持するために、できるだけ多くのアメリカ先住民の指導者と話をするようにした。また、外科医を提供され、インディアンに天然痘の予防接種を始めるように指示を受けた。彼は1750年に東海岸でヨーロッパ人と接触した戦闘部隊が帰還する以前には、オジブワ族の間で天然痘が知られていなかったことを突き止めた。彼らはフレンチ・インディアン戦争(七年戦争の北米戦線)でイギリスと戦うフランスを支援するためにモントリオールに行っていた。 航行中にこの地域を探検する機会を得て、スペリオル湖西部周辺の湖水地方の正確な地図を初めて作成した。イタスカ湖にミシシッピ川の真の源流を発見し、この湖にラテン語で「真」を意味するveritasと「頭」を意味するcaputから名前をつけた。近くのスクールクラフト川はミシシッピ川の最初の主要な支流であり、のちに彼にちなんで命名された。アメリカの新聞はこの探検を広く取り上げた。スクールクラフトは自身の著書Narrative of an Expedition Through the Upper Mississippi River to Itasca Lake (1834)でこの発見について個人的な説明をしている。 1833年にインディアン問題のため自身の管轄区域が大きく拡大されたのち、妻のジェーンとともにマキノー島に移り、そこを統治の新たな本部とした。1836年、オジブワ族との土地の争いの解決に尽力した。彼らとワシントン条約(en:Treaty of Washington (1836))を結び、何百万ドルもの価値がある1300万エーカー(53,000 km²)以上の広大な領土をアメリカに割譲した。彼はオジブワ族は農業を学び、広い狩猟用地を手放した方が良いと考えていた。政府はオジブワ族が新たな生活様式に移行する間に補助金を支払い、物資を提供することに同意したが、約束した補助金の提供はしばしば遅れ、資金不足に至った。結果としてオジブワ族は困窮した。 1838年、条約の条件に基づき、マキノー島のIndian Dormitoryの建設を監督した。この建物はアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録されている。アメリカ政府が描いていた、より定住した生活へと移行する間に、年金を受け取るためにマキノー島に来たオジブワ族に一時的な住居を提供した。 1839年、Northern DepartmentのSuperintendent of Indian Affairsに任命された。後にAlgic Researches (2 vols., 1839)として出版される一連のアメリカ先住民の研究を開始した。これらにはアメリカ先住民の物語や伝説を集めたものが含まれており、その多くは妻のジェーン・ジョンストンが彼に語ったり、彼女の文化から彼のために翻訳したものであった。 ミシガンにいたころ、ミシガン大学の初期の評議会の一員となった。この役職で、同大学の財務組織の設立を援助した。
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