インディアンを巻き込んだヨーロッパ列強の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 04:41 UTC 版)
「インディアン戦争」の記事における「インディアンを巻き込んだヨーロッパ列強の対立」の解説
1688年に始まった大同盟戦争以降、ヨーロッパでの対立構図がそのまま北アメリカに持ち込まれ、主にイギリスの北アメリカ植民地とフランスのヌーベルフランスとの間に抗争が繰り返された。すなわち1689年のウィリアム王戦争、1702年のアン女王戦争、1722年のラル神父戦争、1744年のジョージ王戦争、1749年のル・ロウター神父の戦争(英語版)および1756年のフレンチ・インディアン戦争である。これらを総称して北米植民地戦争とも呼ばれる。フランスとイギリスは、必ずその同盟インディアンを戦争に動員して戦った。 アメリカ植民地やヌーベルフランスでは、フランスの同盟相手は五大湖地方のアルゴンキン語族系インディアン部族であったが、南部フランス領ルイジアナではチョクトー族が同盟相手であった。これに対してイギリスはそれぞれフランスと同盟する部族と敵対的な部族を選び、北部ではイロコイ族、南部ではチカソー族と同盟を結んだ。ミシシッピ川の通行が絡むフランス・チョクトー族同盟軍とチカソー族の戦いは、チカソー戦争 (1720-1760) と呼ばれる。 この時期の特徴的なことは、アメリカ東海岸にほとんどインディアンがいなくなったことである。住んでいるとすれば、ほとんど植民地人の生活習慣を受け入れ、社会的また宗教的にも同化してきたインディアンであり、政府のインディアン部局に所属して代理人を務めたり、一部では混血も進められて農園を所有する者すら現れた。植民地社会に同化できないインディアンは内陸部に後退し、植民地との交易を続けて和平を保つか、入植者に対して敵対的な行動を行って植民地の白人に反撃を食らい、また内陸に引っ込むという悪循環を繰り返した。 これらの戦争の結果、最終的に1763年のパリ条約でフランスが北アメリカの植民地を放棄したことで、情勢が一気に変わった。カナダからメキシコ湾まで広大な植民地を支配することになったイギリスと、それまでフランスやスペインと友好的な関係を築いてきたインディアン部族との間に対立が生まれることになった。
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