ジョージ王戦争とは? わかりやすく解説

ジョージ王戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/10 18:30 UTC 版)

ジョージ王戦争(ジョージおうせんそう、英語: King George's War1744年 - 1748年)は、オーストリア継承戦争に対応する北アメリカ植民地戦争である。当時グレートブリテン王国(イギリス)を統治していたジョージ2世の名にちなむ。北米植民地戦争の1つであり、ニューヨークマサチューセッツ湾ニューハンプシャーノバスコシアを主戦場とした。最も重要な戦闘は1745年にマサチューセッツ植民地総督ウィリアム・シャーリーが組織したケープ・ブレトン島ルイブール要塞への遠征であり、要塞は包囲ののち陥落した。フランス語では第三次植民地間戦争フランス語: Troisième guerre intercoloniale)と呼ばれる[1]


  1. ^ Michel Venne, "L'annuaire du Québec 2004", p.25
  2. ^ 「ジェンキンスの耳の戦争」という名前は1731年にスペイン人士官がイギリス商船の船長ロバート・ジェンキンス英語版の耳を切り落とし、それをイギリス王ジョージ2世に見せるよう言った事件に由来する。
  3. ^ Douglass, William (1755). A Summary, Historical and Political, of the First Planting, Progressive Improvements, and Present State of the British Settlements in North-America. I. p. 338. https://archive.org/stream/asummaryhistori01dgoog#page/n356/mode/2up. 


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ジョージ王戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 14:17 UTC 版)

フォート・アン」の記事における「ジョージ王戦争」の解説

ジョージ王戦争において、フランス軍は、首都アナポリスロイヤル攻略のために3次わたって遠征軍送ったが、攻略成功しなかった。そのうち最も有名なのは、ダンヴィユ公爵の遠征である。

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ジョージ王戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/31 02:49 UTC 版)

ウィリアム・ジョンソン (初代準男爵)」の記事における「ジョージ王戦争」の解説

1744年オーストリア継承戦争北アメリカ植民地にも広がった。これがジョージ王戦争である。ジョンソンモホーク族親しかったため、1746年イロコイ連邦代理人として、オルバニー地域に住むインディアンたちの弁務官代わり務めた。そして新たにイロコイ連邦戦隊大佐」が、フランスとの対戦のために、入植者徴募して訓練するために設置され通告された。イロコイ連邦諸族を徴兵することは難しかった1701年いわゆるビーバー戦争和解以来イロコイ連邦植民地英仏の抗争に対して中立立場取り続けてきたからである。ジョンソンモホーク族族長のヘンドリック・テヤノギン(英語版と共に行動をしており、イギリス側モホーク族引き込むのは可能だったジョンソン小規模襲撃隊を編成しフランス人入植者と、フランス同盟関係にあるインディアンとを襲わせた。またジョンソンは、1747年ニューヨーク頭皮条例伴って相手が、老若男女問わないすべての非戦闘員であることを知りながら、相手頭皮剥ぐこと(英語版に対して多額賞金払った1748年6月ジョンソンは「ニューヨーク徴募大佐」に任命された。これはオールバニ植民地民兵に対して責任を負う新たなであった1748年7月に、ジョージ王戦争の和平交渉知らせ届いたモホーク族はこの戦争かなりの死傷者出し、これによりジョンソンモホーク族の間での名声は、しばらくの間影を潜めた。 1748年ジョンソンは、ジョンソンの上流に新しく石造りの家を建てた。これはジョンソン砦(英語版)として知られるようになり、次の戦争近づくと、この家には厳重に防御施された。1755年ジョンソンは、イギリスと、オールバニモホーク族との外交会議の場を、最初に購入した家からジョンソン砦に移したまた、スケネクタディオールバニにも家を買い、所用ニューヨークへ行く際、途中で泊まれるようにした。 ジョージ王戦争の後、ジョンソンニューヨーク派閥争い巻き込まれた。このうち一つは、総督ジョージ・クリントン英語版)を領袖とする閥で、クリントンは、ジョンソンニューヨークインディアン代理人就任させた人物であり、1750年には、総督評議会議員にも指名していた。またクリントンは、ニューヨーク植民地議会に、ジョンソン戦時出費未決済分約2000ポンド払い戻すように促していた。しかし、対抗勢力である副総督のジェームズ・ド・ランシー(英語版)により、この支払封じられた。このド・ランシーは、代理人としてのジョンソン前任者である、オールバニインディアン弁務官つながりがあった。また、ピーター・ウォーレン義理の兄弟でもあり、そのためジョンソンウォーレンの間に確執生まれた[要出典]。 憤慨したジョンソンは、1751年代理人辞任した1752年7月にはウォーレン亡くなったウォーレン遺言状には、ジョンソン遺すものは記載されていなかった。また、ウォーレンはかなり裕福であったが、遺言状には、ウォーレン土地入植地作る際、生じた負債返すようにとあった。

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セス・ポメロイ」の記事における「ジョージ王戦争」の解説

ジョージ王戦争のとき、フランス領ノバスコシア対す遠征マサチューセッツ植民地引き受けたときに、少佐に昇進していたポメロイはウィリアム・シャーリー知事要請応えて志願兵となった1745年、ポメロイはノバスコシアのルイズバーグ要塞占領したウィリアム・ペッパーレルに率いられ部隊一部担った。ポメロイはその熟練技術使って遠征隊の主任技術士官リチャード・グリドリー助けた。ポメロイはフランス軍陣地外郭固定されていた大砲捕獲した後、これらを調整し直して46日間激し砲撃を行うことに貢献した

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北米植民地戦争」の記事における「ジョージ王戦争」の解説

詳細は「ジョージ王戦争」を参照 欧州オーストリア継承戦争呼応して始まった北米植民地戦争1744年1748年)で、ニューイングランド植民地軍カナダ東部要衝ルイズバーグ要塞陥落させたが、アーヘン条約(エ・ラ・シャペル条約)によって要塞フランス側返還した。せっかくの植民地軍奮闘欧州全域における英国国益のために無視され格好となった

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