ジョージ王戦争
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ジョージ王戦争(ジョージおうせんそう、英語: King George's War、1744年 - 1748年)は、オーストリア継承戦争に対応する北アメリカの植民地戦争である。当時グレートブリテン王国(イギリス)を統治していたジョージ2世の名にちなむ。北米植民地戦争の1つであり、ニューヨーク、マサチューセッツ湾、ニューハンプシャー、ノバスコシアを主戦場とした。最も重要な戦闘は1745年にマサチューセッツ植民地総督ウィリアム・シャーリーが組織したケープ・ブレトン島のルイブール要塞への遠征であり、要塞は包囲ののち陥落した。フランス語では第三次植民地間戦争(フランス語: Troisième guerre intercoloniale)と呼ばれる[1]。
- ^ Michel Venne, "L'annuaire du Québec 2004", p.25
- ^ 「ジェンキンスの耳の戦争」という名前は1731年にスペイン人士官がイギリス商船の船長ロバート・ジェンキンスの耳を切り落とし、それをイギリス王ジョージ2世に見せるよう言った事件に由来する。
- ^ Douglass, William (1755). A Summary, Historical and Political, of the First Planting, Progressive Improvements, and Present State of the British Settlements in North-America. I. p. 338 .
- 1 ジョージ王戦争とは
- 2 ジョージ王戦争の概要
- 3 背景
- 4 関連項目
ジョージ王戦争
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ジョージ王戦争において、フランス軍は、首都アナポリスロイヤル攻略のために3次にわたって遠征軍を送ったが、攻略は成功しなかった。そのうち最も有名なのは、ダンヴィユ公爵の遠征である。
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ジョージ王戦争
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「ウィリアム・ジョンソン (初代準男爵)」の記事における「ジョージ王戦争」の解説
1744年、オーストリア継承戦争が北アメリカの植民地にも広がった。これがジョージ王戦争である。ジョンソンはモホーク族と親しかったため、1746年にイロコイ連邦の代理人として、オルバニー地域に住むインディアンたちの弁務官の代わりを務めた。そして新たに「イロコイ連邦戦隊大佐」が、フランスとの対戦のために、入植者を徴募して訓練するために設置され、通告された。イロコイ連邦諸族を徴兵することは難しかった。1701年のいわゆるビーバー戦争の和解以来、イロコイ連邦は植民地の英仏の抗争に対して中立の立場を取り続けてきたからである。ジョンソンはモホーク族族長のヘンドリック・テヤノギン(英語版)と共に行動をしており、イギリス側にモホーク族を引き込むのは可能だった。ジョンソンは小規模の襲撃隊を編成し、フランス人入植者と、フランスと同盟関係にあるインディアンとを襲わせた。またジョンソンは、1747年のニューヨークの頭皮条例に伴って、相手が、老若男女を問わないすべての非戦闘員であることを知りながら、相手の頭皮を剥ぐこと(英語版)に対して多額の賞金を払った。1748年の6月、ジョンソンは「ニューヨーク徴募隊大佐」に任命された。これはオールバニの植民地民兵に対して責任を負う新たな職であった。1748年の7月に、ジョージ王戦争の和平交渉の知らせが届いた。モホーク族はこの戦争でかなりの死傷者を出し、これによりジョンソンのモホーク族の間での名声は、しばらくの間影を潜めた。 1748年、ジョンソンは、ジョンソン山の上流に新しく石造りの家を建てた。これはジョンソン砦(英語版)として知られるようになり、次の戦争が近づくと、この家には厳重に防御が施された。1755年、ジョンソンは、イギリスと、オールバニのモホーク族との外交会議の場を、最初に購入した家からジョンソン砦に移した。また、スケネクタディとオールバニにも家を買い、所用でニューヨークへ行く際、途中で泊まれるようにした。 ジョージ王戦争の後、ジョンソンはニューヨークの派閥争いに巻き込まれた。このうちの一つは、総督ジョージ・クリントン(英語版)を領袖とする閥で、クリントンは、ジョンソンをニューヨークのインディアンの代理人に就任させた人物であり、1750年には、総督の評議会議員にも指名していた。またクリントンは、ニューヨーク植民地議会に、ジョンソンの戦時出費の未決済分約2000ポンドを払い戻すように促していた。しかし、対抗勢力である副総督のジェームズ・ド・ランシー(英語版)により、この支払は封じられた。このド・ランシーは、代理人としてのジョンソンの前任者である、オールバニのインディアンの弁務官とつながりがあった。また、ピーター・ウォーレンの義理の兄弟でもあり、そのためジョンソンとウォーレンの間に確執が生まれた[要出典]。 憤慨したジョンソンは、1751年に代理人を辞任した。1752年7月にはウォーレンが亡くなった。ウォーレンの遺言状には、ジョンソンに遺すものは記載されていなかった。また、ウォーレンはかなり裕福であったが、遺言状には、ウォーレンの土地に入植地を作る際、生じた負債を返すようにとあった。
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ジョージ王戦争
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ジョージ王戦争のとき、フランス領ノバスコシアに対する遠征をマサチューセッツ植民地が引き受けたときに、少佐に昇進していたポメロイはウィリアム・シャーリー知事の要請に応えて志願兵となった。1745年、ポメロイはノバスコシアのルイズバーグ要塞を占領したウィリアム・ペッパーレルに率いられた部隊の一部を担った。ポメロイはその熟練技術を使って、遠征隊の主任技術士官リチャード・グリドリーを助けた。ポメロイはフランス軍の陣地外郭に固定されていた大砲を捕獲した後、これらを調整し直して46日間の激しい砲撃を行うことに貢献した。
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ジョージ王戦争
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詳細は「ジョージ王戦争」を参照 欧州のオーストリア継承戦争に呼応して始まった北米植民地戦争(1744年~1748年)で、ニューイングランド植民地軍はカナダ東部の要衝ルイズバーグ要塞を陥落させたが、アーヘン条約(エ・ラ・シャペル条約)によって要塞をフランス側に返還した。せっかくの植民地軍の奮闘も欧州全域における英国の国益のために無視された格好となった。
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