ロットフレーノの戦いとは? わかりやすく解説

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ロットフレーノの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/05 15:51 UTC 版)

ロットフレーノの戦い
戦争オーストリア継承戦争
年月日1746年8月10日[1]
場所ミラノ公国ロットフレーノ
結果:決着せず。フランス軍は撤退
交戦勢力
フランス王国
スペイン王国
ハプスブルク帝国
指導者・指揮官
マイユボワ侯爵英語版
ガージェ伯爵英語版
アントニオット・ボッタ・アドルノ英語版
マクシミリアン・ウリセス・ブロウネ
戦力
25,000[1] 30,000
損害
6,000 3,000

ロットフレーノの戦い(ロットフレーノのたたかい、: Battaglia di Rottofreno)、またはロットフレッドの戦い(ロットフレッドのたたかい、: Battaglia di Rottofreddo)は、オーストリア継承戦争中の1746年8月10日ミラノ公国ロットフレーノにおいてフランス軍とオーストリア軍の間で戦われた戦闘。マイユボワ侯爵英語版率いるフランス軍はオーストリア軍の攻撃を撃退したが、戦闘の後には撤退した。

経過

ピアチェンツァの戦いで敗北したフランス=スペイン連合軍はポー川を渡って撤退した。オーストリア軍の指揮官アントニオット・ボッタ・アドルノ英語版はそれを防ぐべく、セルベローニ伯爵(Serbelloni)率いる前衛部隊を派遣して攻撃を仕掛けた。連合軍は荷物がティドネ川英語版の対岸に輸送されるまでロットフレーノを守ったが、オーストリア本軍を前に敗れた。オーストリアのベレンクラウ元帥(Bärenklau)は南からカステル・サン・ジョヴァンニにあるフランスの本軍の側面を攻撃しようとしたが、マスケット銃の銃撃を受けて戦死した[2]。連合軍は戦列を維持したが、やがてトルトーナへの撤退を決定した。その後、ピアチェンツァはオーストリアのナーダシュディ将軍に降伏したが、オーストリアによるピアチェンツァ全体への侵攻は失敗した[3]。いずれにせよ、オーストリアはイタリアの確保に成功した。

脚注

  1. ^ a b Bodart, Gaston (1908). Militär-historisches Kriegs-Lexikon (1618-1905). Vienna. p. 209. 
  2. ^ https://www.deutsche-biographie.de/sfz1843.html#adbcontent
  3. ^ Black, Jeremy (2002). America Or Europe?: British Foreign Policy, 1739-63. Hoboken: Taylor and Francis. p. 15. 

参考文献




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