アナポリスロイヤルとは? わかりやすく解説

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アナポリスロイヤル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/20 08:00 UTC 版)

アナポリスロイヤルAnnapolis Royal)は、カナダノバスコシア州にある町。ファンディ湾沿岸にアナポリス川が形成する深い湾入の奥に位置する。




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アナポリスロイヤル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 02:42 UTC 版)

ファンディ湾方面作戦」の記事における「アナポリスロイヤル」の解説

イギリス軍少佐のジョン・ハンドフィールドは、アナポリスロイヤル(ポートロワイヤル)でのアカディア人追放責任者だった。この地域での追放はなかなか進まなかったが、ついに1755年12月8日軍艦3隻に護衛された7隻の船に乗り込んだ。この時追放逃れたアカディア人300と言われている。 12月8日出港した船には、32アカディア人家族、計225人が捕虜としてイギリスペンブローク乗っていた。この船はノースカロライナ向かっていたが、アカディア人たちはこの船を乗っ取った1756年2月8日アカディア人たちはセントジョン川を出来る限り遠くまで上って行った。そして上陸し、その船に火を放った。マリシート族の一団が、彼らを川の上流の方へと案内した。そこには、大規模なアカディア共同体があった。マリシート兵は彼らを、流浪中のアカディア人のための、ボーベアル島(ボーベア島)にあるボワシェベールの難民キャンプ一つに連れて行った。何組かのアカディア人家族は、さらにアナポリス川をさかのぼって、モーデンの近くのノースマウンテンの行った。冬のことで多く死者が出、春にミクモー族の一団が、生き残ったアカディア人と共にファンディ湾横切ってシグネクト岬の「難民入江」に行き、そこからニューブランズウィック奥地へと進んで行った最初追放逃れたアカディア人は約50人から60人で、ノバスコシア南西部を含むケープ・サーブル地域へと逃げて行ったと言われる。ここを拠点に、彼らはルーネンバーグでの多く奇襲参加した

※この「アナポリスロイヤル」の解説は、「ファンディ湾方面作戦」の解説の一部です。
「アナポリスロイヤル」を含む「ファンディ湾方面作戦」の記事については、「ファンディ湾方面作戦」の概要を参照ください。

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