最初の植民地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/21 06:50 UTC 版)
詳細は「ロアノーク植民地」を参照 ロアノーク島は16世紀に新世界でイングランドが最初に造った植民地、ロアノーク植民地があった場所である。イングランドの「バージン・クイーン」、エリザベス1世の栄誉を称えて名付けられたバージニアと呼ばれた地域の中にあった。ここに植民地を設立した集団は前後2つ有ったが、どちらも失敗した。 最初の試みは1585年にラルフ・レーンが指揮したものだった。リチャード・グレンビル卿が開拓者をバージニアに運び、計画通り物資を補給するためにイングランドに戻った。開拓者はその物資がどうしても必要だったが、グレンビルの帰還が遅れた。その結果、フランシス・ドレーク卿がセントオーガスティンのスペイン植民地を攻撃した後で、ロアノーク島に立ち寄ったとき、開拓者全員が植民地を放棄してドレイク卿と共にイングランドに戻った。 1587年、イングランドは再度ロアノーク島の開拓を試みた、開拓者エレノア・デアの父、ヴァージニア・デア(新世界で最初に生まれたイングランド人の子供)の祖父であるジョン・ホワイトが物資を補給するために島を離れてイングランドに戻った。ホワイトは3か月以内にロアノーク島に戻って来られると見ていたが、イングランドはスペインとの戦争を始めており、全船舶は戦争遂行のために押収されていた。ホワイトがロアノーク島に戻ったのは1590年になってからであり、その時までに全開拓者が消えていた。開拓地は放棄された。ホワイトが見つけた唯一の糸口は、木に刻まれた「CROATOAN」という言葉だった。ホワイトは3年前に植民地を出るときに、開拓者が土地を離れるときは木に目的地を彫っておくよう、危険に曝されて離れる場合はマルタ十字を彫っておくよう指示を出していた。 「CROATOAN」はロアノーク島の南にある島の名前であり(現在はハッテラス島)、イングランド人に友好的なインディアンが住んでいることが分かっていた。開拓者はその島に行こうとした可能性が強い。しかし、ホワイトは悪天候のためにクロアトアンに開拓者を探して南に行くことができず、イングランドに戻った。ホワイトはその後新世界に戻ることは無かった。この開拓地に何が起こったか正確には判断できないまま、この地は「失われた植民地」と呼ばれるようになった。 フォートローリー国定歴史史跡はこの島にイングランド人が建設した砦を再現したものであり、考古学調査と歴史的文献に従って建設された。 探検家ジョン・ローソンは、1709年に出版したその著書『カロライナへの新しい旅』の中で、失われた植民地の跡が今も見られるとして、次のように書いていた。 この国を最初に発見し、入植したのはウォルター・ローリー卿の買収によるものであり、エリザベス女王の保護下に当時の公共心のある紳士数人と協業していた。女王にちなんでバージニアと名付けられた植民地のロアノーク島と呼ばれる部分で開拓が始まり、今日でも砦の跡が見られ、後にはイングランドの古い貨幣が見つかった。真鍮の銃、火薬を入れる角、および鉄の棒で造られ鉄の環が嵌められた船尾甲板用の小さな大砲が見つかった。大砲を造る方法は当時できたばかりの植民地でもできるようにされていたものの可能性が強い。 ローソンはまた、ハッテラス島の原住民が「白い人々」の子孫であると主張し、その旅の間に遭遇した他の部族には無い、ヨーロッパ人に結びつけられるような身体的印を受け継いでいたとも語っていた。 ハッテラス島のインディアンから我々が確かめたことは、彼等が当時ロアノーク島に住んでいたか、あるいはしばしば訪れていたということだった。このことから彼等の先祖の幾らかは白人であり、我々がやるように本(文字)で話すことができたと分かる。これが真実であることは、彼等の間に灰色の目をした者が多いことで確かめられ、他の部族には無い。かれらはイングランド人に対する親近感に特に重きを置いており、友好的に対応する用意があった。この開拓地はイングランドからの物資がタイムリーに届かず失敗した可能性がある。あるいはインディアンの裏切りによって、イングランド人は救済と対話のためにインディアンとの共生を強いられたと推測するのも可能である。時の経過と共に、彼等はインディアンの関係者の作法に同化していったと見られる。
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