最初の橋の完成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 05:42 UTC 版)
1839年には防水堰を建設するなど、実際の建設が始まった。水中での作業にはイギリスから輸入された潜水服などが活用され、花崗岩などはオーストリアから調達された。1842年8月24日には起工式が行われ、1848年3月に起こった三月革命の影響なども受けつつ、橋の建設は続いた。ハンガリーの独立運動に対し、オーストリア兵が橋のアンカレイジを破壊しようとしたが、アダム・クラークの機転もあって、失敗に終わった。かわりにオーストリア兵が橋床の上に置いた爆薬は木造だった橋床の一部を破壊したが、アイバーチェーンは無傷だった。その錬鉄製のチェーンはイギリス製で、1846年秋から1年以上かけて順次ブダペストに搬入されており、1848年3月から実際に架けられ始めていた。この架設作業では終盤に滑車が壊れ、落下したチェーンによる死亡事故なども起こったが、橋は1849年11月20日に完成した。 当初、建設様式から単に「鎖橋」(ラーンツヒード)と呼ばれていたこの橋を「セーチェーニ橋」と名付けようと提案したのは、ハンガリーでの革命で指導的立場にあったコシュート・ラヨシュであった。現在の名前「セーチェーニ鎖橋」は、こうした経緯からついたものだという。しかし、セーチェーニ自身は完成した時点で病気療養中で、結局この橋を見ることも渡ることもないまま歿した。 最初に完成した橋は長さ410ヤード(約375 m)、幅39フィート(約12 m)、高さ海抜36フィート(約11 m)、主塔の高さ160フィート(約48.8 m)であった。完成した時点では世界最長の吊橋だったといわれることもあるが、中央径間(主塔に挟まれた区間)でいえばスイスのフリブールにこれよりも長い橋があった。ただし、セーチェーニ鎖橋については、建設途中の1846年の時点で「世界で最も偉大な吊橋」と評していたアメリカの技師もおり、高く評価されていた。 橋の両側のたもとにあるライオン像(合計4頭)は1852年に設置された。手がけたのは彫刻家のマルシャルコー・ヤーノシュ (Marschalkó János) である。このライオン像に関して、舌がないので除幕式の際に人々が彫刻家をからかい、彫刻家はドナウ川に投身自殺してしまったという逸話がしばしば紹介される。しかし、実際は口の奥に舌はあり、彫刻家はライオンは舌を垂らさないという判断でそのように彫ったのだという。
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