イギリスの植民地
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「ニュージャージー州の歴史」の記事における「イギリスの植民地」の解説
ニューネーデルラントの植民地からオランダはイギリスが行っているアメリカ植民地との大西洋貿易に干渉した。イギリスはジョン・カボットが初めて北アメリカを発見したと主張し、ヨーク公にニュージャージーを含む土地を勅許し、ヨーク公はリチャード・ニコルズ大佐にこの地域の支配を命じた。1664年9月、ニコルズの指揮する艦隊が現在のニューヨーク港に入り植民地を掌握した。イギリスは、おそらくオランダの知事ピーター・ストイフェサントの不人気の故だろうが、ほとんど抵抗を受けなかった。ニコルズは植民地の占領後、ニューアムステルダムと他のニューネーデルラントの副知事となり、植民者の財産権と法の継承、および信教の自由を保障した。ニューネーデルラントはニュージャージー(1649年にイングランド王チャールズ2世が即位したイギリス海峡にあるジャージー島に因む)と改称され、ニューアムステルダムはニューヨークになった(ヨーク公に因む)。 チャールズ2世はニューイングランドとメリーランドの間の地域を、弟であるヨーク公(後のジェームズ2世)に領主植民地として与えた。後にジェームズ2世はハドソン川とデラウェア川の間の地域、すなわち今日のニュージャージー州の土地を、清教徒革命の間も忠実であった2人の友に与えた。ジョージ・カートレット卿とストラットン伯ウィリアム・バークレーである。この2人のニュージャージー領主は、ニュージャージーに多くの開拓者を惹き付けるために、開拓者に土地の利用を認め、ニュージャージーの全ての住民に信教の自由を認める文書「利権と合意事項」を渡した。当時のイングランド国教会はそのような信教の自由を認めていなかった。土地の利用を許されることの見返りに、開拓者達は毎年土地の使用料を払った。領主達はフィリップ・カートレットを初代知事に任命し、初代知事はエリザベスタウン(今日のエリザベス)をニュージャージーの首都に決めた。しかし、2人の領主は土地の使用料を集金することが難しいことが分かり、1673年3月18日、バークレーは自分の持ち分をクエーカーに売却した。 この売却で植民地はイーストジャージーとウエストジャージーに分かれることになった。東西のジャージーを分ける境界は、概して今日のニュージャージー南部と北部を分ける境界に相当し、ジョージ・キースによって作られたものだった(キース線)。しかし、その境界線は常に紛争のタネになった。1676年のクィンティパーティト・ディードにより正確な測量が行われた地図ができて1696年頃に描かれたいわゆるソーントン線となり、さらに1743年頃に描かれたいわゆるローレンス線が法的な目的で使われる最終的な境界として採用された。 ニュージャージーの植民者の多くは農夫になった。しかし、大地の肥沃さにも拘わらず、イギリス・ポンドの不足のために農夫達は苦闘することになった。もともとオランダの開拓者であった植民者の大多数は丸太の小屋に住んだ。ニュージャージーは大西洋に面しているということでは恵まれていたので、植民者は農業と漁業それに海上交易を行った。輸送は足と馬を使うので鈍く困難であった。子供の教育は小さな宗教学校、私設の学校、あるいは家庭教師によって行われた。 ニュージャージーの西側はクエーカー派の植民地として開発され、一方で東側は投機や貿易などの利潤の追求が重視されるようになった。1680年代にはスコットランドからの移住が奨励され、カルヴァンの影響を受けた長老派が多く住むようになった。 1702年、アン女王の治世の時に、東西のジャージーは統合されて新たに王室領となった。領主の政府改革の試みや免役地代をめぐって抗争が絶えなかったために、領主が統治権を蜂起したためである。コーンベリー領主のエドワード・ハイドが王室領としての植民地の初代知事になった。ハイドは効率の悪い堕落した支配者であり、賄賂を取り、土地の投機を行ったので、1708年に本国に呼び戻された。その後はニューヨーク植民地の知事がニュージャージー知事を兼ねたが、これではニュージャージー開拓者の鬱憤が積もり、知事がニューヨーク植民地にばかり肩入れしていると告発した。ルイス・モリス判事がこの事件を裁き、1738年にはモリス自身がジョージ2世によって知事に指名された。1701年から1705年の間、ニュージャージーとニューヨーク植民地の境界が論争となり、一連の小競り合いや襲撃が起きた。 1746年、「カレッジ・オブ・ニュージャージー」(現在のプリンストン大学)が、エリザベスタウンに設立された。創設者は、ジョナサン・ディッキンソン、アーロン・バー・シニアおよびピーター・ヴァン・ブラフ・リビングストンを含む、大覚醒の「新しい明かりをつける人」の集団であった。1756年に校舎がプリンストンに移された。
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イギリスの植民地
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「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「イギリスの植民地」の解説
詳細は「マハトマ・ガンディー」、「塩の行進」、「ムハンマド・イクバール」、および「全インド・ムスリム連盟」を参照 詳細は「パフラヴィー朝」および「レザー・パフラヴィー」を参照 詳細は「パレスチナ問題#経緯」、「フサイン=マクマホン協定」、「サイクス・ピコ協定」、および「バルフォア宣言」を参照 詳細は「エジプト革命_(1919年)」を参照 第一次世界大戦後も広大な植民地を維持したイギリスではあったが、各地でイギリスの植民地支配に対して、対抗する動きが活発となった。 イギリス領インドでは、1919年、アムリットサル虐殺事件が発生した。また、ローラット法を施行し、インド人に対して令状なしの逮捕、裁判なしによる投獄が可能となった。この事件を皮切りに、様々な立場から反英運動が高まりを見せることとなった。 このような環境の中で登場したのが、マハトマ・ガンディーである。インド国民会議に参加したガンディーは、非暴力不服従運動を展開し、たびたび、投獄された。イギリス製品の綿製品を着用せず、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを呼びかけるなどのガンディーの行動は、国内外で大きな影響を与えた。彼の運動は、1930年の塩の行進で頂点に達した。 とはいえ、ガンディーの思想や政治行動に対して、まったく反発がなかったというわけではない。とりわけ、イスラーム教徒による反発は大きかった。全インド・ムスリム連盟内部でも派閥争いが絶えず起こっていたが、その中でも、思想的支柱の役割を果たしたのがムハンマド・イクバールだった。ガンディー同様、海外の滞在経験が長かったイクバールは、よりどころをイスラーム的政治形態に求めていく。また、インド亜大陸一体の独立ではなく、イスラーム教徒が居住する地域をインドとは別個の形で独立させるべきだと主張した。イクバールの思想は、後にイスラーム圏で大きな影響を与えると同時に、「パキスタン構想」へと発展していった。 ミャンマーでは1920年代から民族運動がはじまり、僧侶による啓蒙運動や1930年結成のタキン党とよばれる急進的民族主義者の台頭がみられた。イギリスはこうした動きを弾圧したが、一方では議会制を導入し、部分的な自治を認めるなどの妥協も講じた。 イギリスは、イラン南部を勢力圏においていた。また、イランは、1901年に石油が発見されていったため、資源の側面からもイギリスは手を引くわけにはいかなかった。当時、ロシア革命以後もソヴィエトがロシア帝国のもっていた勢力圏を維持しようとした動きがあったこともイギリスのイランへの介入を継続する一因となった。そのなかで、レザー・パフラヴィーがガージャール朝内部で台頭した。彼は、1921年の軍事クーデタで全権を掌握すると、遊牧部族の反乱を次々と鎮圧していった。1925年には、アフマド・シャーを廃してシャーに即位した。この王朝をパフラヴィー朝と呼ぶ。レザーはその後、イラン発展の障害を取り除く努力を行っていく。イスラーム化以前のイランの文化にも注目し、ゾロアスター教にイラン固有の価値を認めるなど、イラン人のアイデンティティを鼓舞していった。 イギリスは第一次世界大戦中、オスマン帝国を牽制するために、アラブ人には1915年にフサイン=マクマホン協定を、ユダヤ人には1917年にバルフォア宣言を締結し、それぞれにパレスチナの地に対して国家建設を認めるとした秘密外交を展開し、支持を取り付けた。一方で、英仏露の三国で1916年サイクス・ピコ協定を結び、戦後の中東における領土配分を協議していた(イギリスの「三枚舌外交」)。大戦後、パレスチナの地はイギリスの委任統治領となり、ユダヤ人植民が始まった。その為、ユダヤ人が2000年以上前 にパレスチナの地から去った後に住んでいたパレスチナの人々(アラブ人)との対立の火種が生まれた。 イギリスの保護国だったエジプトでも、独立の気運が高まっていた。第一次世界大戦が終わると、ワフド党のリーダーだったサアド・ザグルールが中心となって、市民的不服従の独立運動が起こった。ザグルールの逮捕が起因となって、1919年3月から4月にかけて、学生、公務員、商人、女性、宗教指導者を中心とするデモンストレーションやストライキが起こった。宗教指導者に関しては、イスラームやコプト正教会など宗教の枠を超えて独立が希求された。 1922年、エジプトはフアード1世を国王とするエジプト王国として独立を達成し、翌年には、議院内閣制に基づく新憲法が公布された。1924年、ザグルールは、エジプトの議院内閣制下では最初の首相に就任した。しかし、エジプトにはイギリスの軍隊が駐在し続けた。なお、エジプトは1936年にイギリスとの間で同盟条約を結び、駐留イギリス軍の縮小に成功している。
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イギリスの植民地
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「アメリカ合衆国の植民地時代」の記事における「イギリスの植民地」の解説
「13植民地」も参照 イングランドは幾つかの理由で17世紀の初めに最初の植民地化を始めた。この時代、スペインによる侵略の怖れがある中で、プロテスタントのある程度の軍事力と女王エリザベス1世の活力に援けられて、イギリスの第一の国家主義と国民的主張が花開いた。しかし当時、イギリスの政府によって植民地帝国を創設する公式の試みはなされなかった。むしろ植民地を建設する背後にある動機はばらばらで変化するものだった。商業的起業、過剰人口および宗教的自由の望みといった実際的な話がその動機の一部になった。 開拓の大きな波は17世紀に訪れた。1700年以降、植民地アメリカに到着する大半の移民は年季奉公としてだった。1610年代後半からアメリカ独立の間で、イギリスはそのアメリカ植民地に推計5万人の受刑者を運んだ。最初の受刑者が到着したのはメイフラワー号が到着する直前のことだった。
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