植民地アメリカ
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「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」の記事における「植民地アメリカ」の解説
植民地アメリカでは1619年に最初のアフリカ人奴隷の記録がある。オランダ船「ホワイトライオン」がメキシコへ向かうイスパニア船と交戦し50~60人の奴隷化されたアフリカ人を奪取した。このイスパニア船はマニラで慶長遣欧使節から買い取ったサン・ファン・バウティスタ号であり、在英大使に譲渡された後に大使の親戚のマヌエル・メンデス・デ・アキューナに渡り、ルアンダから350人の奴隷を調達し輸送する途上だったという説が2018年に提唱されている。ホワイトライオンは交戦で損傷しており、さらに晩夏の大きな嵐によってその程度がひどくなった状態でバージニアのジェームズタウン(50km離れたハンプトンという説もある)に到着した。バージニア植民地は後に「大移住」 (1618-1623)と呼ばれる時期の最中にあり、住民は450人から4,000人にまで増えていたが、疫病、栄養失調、インディアンとの戦いによって極端に死亡率が高く、働ける労働者の比率は低いままであった。ホワイトライオンは修理と補給物資を必要としており、植民地人は労働力を必要としていたので、奴隷20名と食料や用役とが交換された。現代ではこの20名が北米大陸へ最初に上陸したアフリカ人奴隷と認識されている。 アフリカ人奴隷に加えて、かなりの数のヨーロッパ人が特にイギリス領13植民地に年季奉公として連れてこられた。イギリスから渡ってきていたジェームズタウンの白人は、バージニア植民地で最初のアフリカ人を年季奉公として扱うことに決めた。ヨーロッパからの奉公人と同様に、アフリカ人も一定期間の奉公が終われば解放され、前の主人から土地や物資の利用が認められた。少なくとも一人、アンソニー・ジョンソンは最終的にバージニアの東海岸で土地所有者となり、自分でも奴隷を所有した。年季奉公の主要な問題は時間が経てば解放しなければならないことであったが、解放された者もその後に富を築いたかと言えばそうでもなかった。バージニア植民地の肥沃な海岸地域は既に1650年までには富裕なプランテーションの一族に占められており、元奉公人は下層階級になった。1676年のベイコンの反乱は貧乏な労働者や農夫が金持ちの土地所有者にとって危険な存在であることを示した。純粋に動産としての奴隷制に移行することにより、新しい白人労働者や小農は自分で移民してきて自活していける者達にほとんど限られるようになった。 年季奉公から人種を区別した奴隷制への移行は徐々に進んだ。バージニア植民地の初期の歴史には奴隷制に関する法律もなかった。しかし、1640年までに、バージニア植民地の裁判所は少なくとも一人の黒人従僕を奴隷と宣告していた。1654年、ノーザンプトン郡の裁判所はアンソニー・ジョンソンの奴隷であったジョン・ケイサーに終生資産(奴隷)であると宣言する判決を下した。アフリカ生まれの者は生まれつきイギリスの市民ではないので、イギリスの慣習法で必ずしも保護されていなかった。 1705年のバージニア奴隷法で奴隷の条件を明らかにした。イギリス植民地の時代、各植民地に奴隷制があった。北部の場合は主に家の従僕であった。南部の初期の奴隷は農園やプランテーションで働き、アイ、米およびタバコを栽培した。綿花は1790年代以降、主要作物になった。サウスカロライナ植民地では1720年に人口の65%が奴隷であった。奴隷は海外との交易を行っているような裕福な農園主やプランテーション所有者に使われていた。僻地の必要最低限の生活をしているような農夫では滅多に奴隷を持てなかった。 イギリス領植民地の幾つかは新しいアフリカ人が秩序を乱すことを恐れて奴隷貿易を廃止させようとした。その効果を狙ったバージニア植民地の法案はイギリス本国の枢密院によって拒否された。ロードアイランド植民地は1774年に奴隷の輸入を禁止した。ジョージア植民地を除いて、全ての植民地は1786年までにアフリカ人奴隷貿易を禁止するか制限するかした。ジョージア植民地も1798年にそれに倣ったが、幾つかの州の法はその後撤廃された。
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