植民地への視線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 04:59 UTC 版)
中島敦は朝鮮・満州・南洋と多くの日本の外地を訪れており、朝鮮や満州での植民地体験や当時の政情・社会的状況を取り入れた作品が一高時代の習作や未完の『北方行』などに見受けられる。中島はイデオロギー的な作家ではなく左翼的志向は見出せないが、朝鮮人が日本人から受ける差別の悲哀や民族の嘆きに目を向けた新感覚派タッチの習作『巡査の居る風景』や、1927年(昭和2年)7月の大連の3つの対照的な叙景(辞任内定の満鉄総裁、夏休み中の下級満鉄社員の家族、失業中の中国人労働者・苦力)をオムニバス式に描いた未完の習作『D市七月叙景(一)』がある。 それらには冷静な目で現実をとらえようとする態度がみられ、『D市七月叙景(一)』では、3つの階層の人物像と彼らに内在する存在の不安をそれぞれの植民地生活者のアイデンティティー喪失感として描き出そうとしている。朝鮮人自身の矜持の感覚にも触れている私小説的な『虎狩』では、小学校・中学校時代の同級生で朝鮮貴族の子弟の多面性や複雑な感情を観察して描き出している。 京城中学は、朝鮮人でも地主や上流階級の子弟が通っていた学校であったため、一般的な風俗や習慣を深くは描けなかったとされるものの、『巡査のいる風景』などはその時代への鋭い問題意識の見られる作品だとされている。また、少年時代の植民地での不合理な人間洞察は、「存在の不条理性」という中島の中核的な想念の要因の一つにもなったとみられ、その点で同じく多感な時期に植民地体験のある安部公房や埴谷雄高といった、不条理性を文学テーマとした作家と通底する部分があると鷺只雄はみている。 当時の中国を舞台にした『北方行』には「張作霖爆殺事件」後の中国の政治抗争過程が詳しく綴られており、そうした同時代の近現代史の政治的事件の忠実を散りばめながら、東西の異文化が交錯する中国情勢を俯瞰し国際関係を描きうる特殊な才能が中島にはあったと三浦雅士はみている。そして、自身の自己表白の吐露ばかりが肥大化し未完のまま放棄された『北方行』は短編『狼疾記』に転じ、内面自我(狼疾)のテーマに絞られ、それを追究していくことになるが、前項でも述べたように『北方行』は大きなテーマを目睹し、当時の戦争や革命運動、民族・国家を取り混ぜつつ複雑な社会や歴史の中での自己や人間群像を描こうとしていたとみられる。 中島は非政治的な人間であったともいわれるが、川村湊は、未完の長編『北方行』の草稿や、私記『斗南先生』の作品内容から、列強(英仏独露)による中国分割の危機に警鐘を鳴らし対岸の火事ではないと唱えていた伯父・中島斗南や、満州政府にいた叔父・中島比多吉の影響を受け、中島が当時の中国の政治問題に彼ら同様コミットしようとしていたのではないかと指摘している。また陳愛香は、中島が初期の朝鮮物で描いた日本自身の中の内部批判要素を経て、伯父・斗南の論旨を「正鵠を得ている」とし大東亜共栄圏の理想(民族共同の共同主義、各民族の独自性を承認する多元主義)に共鳴するまでの軌跡には、近代西欧的な支配主義への批判的思考が貫かれているとしている。 同じ植民地でも一見平穏だった南洋の島々の体験からは、『巡査の居る風景』や『北方行』のような現地の歴史的な問題意識を照らし出したものは特に見られず、南島の現地人の分かりにくさや異文化に注目したものが主で、不可解な存在をあるがままに受け入れ、強いて解を求めない新たな視座が垣間見られる。また、現地の子供が日の丸を掲げて愛国行進曲を歌っているさまを微笑ましいものと見て皇民教育そのものは否定していないが、滞在時の日記や書簡中には、自然に暮らしている原住民に近代的文明教育を施すことへの疑問などが記され、画一化するのではなく彼らの個性の差異を尊重したい民族協同的な思考が見受けられる。 小谷汪之によれば、朝鮮人の人間像については複雑・重層的に描写される一方で、南洋の現地人の描写は月並みで表層的なものに留まっているとされる。その理由について小谷は、朝鮮物については生の体験をそのまま描いたのではなく、帰国後に取り入れた様々な知識の中で経験を文脈づけて成形したものであるのに対し、南洋滞在時の日記・書簡、随想は単にそのときの体験をそのまま書いたものにすぎないという相違があったからだとし、もしそれらを反芻し発酵させる十分な時間があったなら歴史的な広がりや奥行きのある植民地としての南洋作品が書かれたのではないかと考察している。 なお、中島は南洋滞在後半の12月に日米開戦となった太平洋戦争については、開戦直後の各所の日本の勝利の知らせには「いよいよ来るべきものが来た」と「我が海軍機」「日本の海軍機」のすばらしさを称えて喜びつつも、それ以前(10月)に視察していたトラック諸島夏島では現地民が戦争準備のため過酷な労働に従事させられている姿に同情し、「土民」を使いつぶして構わないような「為政者」の方針には否定的な考えを持っていた。 中島には戦争に対する相反する感情(自国への忠誠心と戦禍による喪失感)が共存していた様子がみられ、木村一信によれば、「中島は、戦争に対しては当時の一般の受けとめ方とほとんど同じようなとらえ方をしていた」にすぎず、反戦も非戦も唱えていなかったとされる。異母妹・澄子の回想によれば、敦は真珠湾攻撃などの戦果には喜びつつも、戦争遂行には疑問を持っていた節もあるとされ、妻タカが「戦争遂行への決意らしいこと」を述べた時にそれを「きっぱり否定した」ともされる。 戦争と文学作品は別のものだという態度を表明していた中島は、文学者の学問や知識による文化啓蒙運動も、文学の戦争協力も、文学の純粋性を損なうものとして否定し、文学が何らかの「ポスター的実用」(政治的な効用のようなもの)に供すること自体に反対する主義だということを遺作の随筆「章魚の木の下で」で書いている。こうした中島の非政治的な態度について、オクナ―深山信子は、戦時中に沈黙を守っていた谷崎潤一郎や永井荷風にも共通する審美的なものとし、花田俊典は、目下の戦争自体は受認し戦う時は兵士として戦うとながらも、文学が便乗文学・御用文学に堕することを批判した坂口安吾や小林秀雄の態度と共通するものだとしている。 別の側面から戦争の影響をみると、ミクロネシアで触れた太平洋戦争の影は、中島が「運命」と呼んだ「非条理な力を具現化したもの」でもあったため、彼の文学テーマ「人間の生の意味」「我とは何か」が戦争以前の『狼疾記』などのような形而上的な問いだけではなく、より直接的なリアルなものとして深まる転換点になったとオクナ―深山信子は指摘している。 戦争による「死と破壊」が間近になることで、中島が「一個の人間の生のむなしさ」と、「むなしいにもかかわらずに存在する美」との相互対照を感得したことが、『弟子』『李陵』などの、非条理な運命に対峙した人間の「存在の不確かさを認めざるをえない悲劇的な感覚」が満ちた後期の作品から看取され、戦争勃発により深まった世界観が、『弟子』『李陵』の登場人物たちのような「自分に与えられた生をいかに生きるか」を問い「自らの生の意義を定めていく」という実存主義的人間観の作品に生かされることになった。
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