朝鮮での少年時代
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1922年(大正11年)3月に京城府龍山公立尋常小学校卒業後は、難関の公立京城中学校にトップで入学した。父の再婚や転校、外地へ移転など様々な環境の激変化にもかかわらず、成績は常に優秀であった。京城中学時代の同級生には、 のちに小説家となる湯浅克衛や、湯浅と回覧雑誌を始めていた小山政憲がいた。 敦は中学のころは湯浅や小山のような文学青年とはあまり付き合わず、普通の友人と様々なスポーツを楽しみ親しく交遊していたが、このころからすでに英文学の本などを鉄道図書館で借りて読んでおり、家の蔵書の『徒然草』や『十八史略』を面白いからと家に遊びにきた友人にも勧めていた。友人の記憶によれば、京城中学の校友会雑誌に敦の漢詩や作文、ボードレールの訳詩が載ったこともあるという。 また湯浅の回想によると、3年のとき湯浅が数学の授業中に急進的な総合雑誌『改造』を読んでいたときと、4年のとき寄宿舎の机の中の『痴人の愛』(谷崎潤一郎)が摘発されたときの2度、級長の敦が職員室で直談判して強く弁護し、湯浅の停学処分が免れたというエピソードもある。 小学校時代と同様に中学時代も、敦はきわめて優秀で開校以来の秀才といわれていた。異母妹を背負って子守りをしながら中学1年ですでに四書五経を読破するなど多くの和漢書を読み、英語や数理学科の成績もよかった。だが、いわゆるガリ勉タイプではなく、いつ試験勉強しているのか分らない様子で、時には友達を誘い授業をサボって裏山に登り、城壁を越えて外の世界を散策していたという。そんな敦は友人達から「トンさん」という愛称で呼ばれていた。 そうした学業の優秀さや活発さと並行し、小学4年のときから始まった世界の無意味さの感覚につながる「存在の不確かさ」という不安も多感な中学時代からつきまとうようになり、「字」という存在や自分の父親という1人の男の存在など、周囲の事物のその必然性・偶然性について思い巡らすことも多かった。 丁度、字というものは、ヘンだと思い始めると、――その字を一部分一部分に分解しながら、一体此の字はこれで正しいのかと考え出すと、次第にそれが怪しくなって来て、段々と、其の必然性が失われて行くと感じられるように、彼の周囲のものは気を付けて見れば見る程、不確かな存在に思われてならなかった。 — 中島敦「狼疾記」 この京城中学時代の14歳のときに、最初の継母カツが異母妹を産んで数日後に死去したため、15歳のとき父は大阪出身の新たな継母・飯尾コウを迎えた(正式な入籍は翌年6月)。こうして幼少年時代に2人の継母と暮らした敦だったが、父や継母たちとの折り合いは良くはなかった。 新しい継母を迎えたころ、敦は彼女や父に対して反抗的で父から殴打されたこともあった。敦はなんでも理詰めで解釈し頑ななところがあった。異母妹の澄子によると、「(兄は)会話をしていても相手が受け答えにもたもたしていると、すぐかんしゃくを起し、一度言ったことを二度言わせたり聞き返したりすると、ひどく怒った」という。 三造は彼を生んだ女を知らなかった。第一の継母は、彼の小学校の終り頃に、生れたばかりの女の児を残して死んだ。十七になったその年の春、第二の継母が彼のところに来た。はじめ三造はその女に対して、妙な不安と物珍しさとを感じていた。が、やがて、その女の大阪弁を、また、若く作っているために、なおさら目立つ、その容貌の醜くさを烈しく憎みはじめた。そして、彼の父が、彼なぞにはついぞ見せたこともない笑顔をその新しい母に向って見せることのために、彼は同じく、その父をも蔑み憎んだ。 — 中島敦「プウルの傍で」 父や継母との距離感で孤独にさいなまれていた敦の心を癒すものは、飼い猫だけだった。生母のいない淋しさから敦はその黒猫をとても可愛がり寝るときもいつも抱いていたので、猫の方も犬のように懐いて敦が京城中学から戻ってくるのを家の門のところで待っていたという。 当時京城で近隣にいた親族によると、のちの敦の喘息の一因には猫の毛を常に吸い込んでいたことがあるのではないかとしている。そうした生母を知らない淋しさ、「母」という存在の希薄さが、のちの中島文学の形成にも影を落としていくことになる(節「「母」の不在」も参照)。 1925年(大正14年)の16歳のとき、父親が関東庁立大連中学の勤務となり、父が後妻コウと大連に引っ越し、京城に居残った敦が伯母・志津(京城女学校に勤務)の家に移り住んでいた間は少しグレていた様子で成績が落ちたこともあった。このころ、ある級友に頼まれ彼の試験答案を代筆したことが発覚し、謹慎処分を受けたこともあった。 1926年(大正15年)には、コウが産んだ三つ子の異母弟妹のうち2人の弟が同年中に亡くなる出来事もあった。授業中に机の蔭で何か他の本を読んでいることが度々あった敦ではあったが、それを見た教師が敦に問題の解答を指名しても、正確な答えが返ってくるため叱ることができなかったという。4年の秋の模擬試験では国漢・数学・英語、各200点×3の600満点中、敦は英語の単語一つ間違えただけで598点をとった。 龍山小学校・京城中学時代を通して、中島敦は合わせて5年半を朝鮮半島で暮らした。初期の習作「巡査の居る風景」や「虎狩」における植民地時代の朝鮮像や朝鮮人の描写は、その後に得た朝鮮に関する広い社会知識によるところが大きいものの、この頃の朝鮮での経験をベースにしたものであるとされる(節「植民地への視線」も参照)。
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