朝鮮での少年時代とは? わかりやすく解説

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朝鮮での少年時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 04:59 UTC 版)

中島敦」の記事における「朝鮮での少年時代」の解説

1922年大正11年3月京城府龍山公立尋常小学校卒業後は、難関公立京城中学校トップ入学した。父の再婚転校外地移転など様々な環境激変化にもかかわらず成績は常に優秀であった。京城中学時代の同級生には、 のちに小説家となる湯浅克衛や、湯浅回覧雑誌始めていた小山政憲がいた。 敦は中学のころは湯浅小山のような文学青年とはあまり付き合わず、普通の友人様々なスポーツを楽しみ親しく交遊していたが、このころからすで英文学の本などを鉄道図書館借りて読んでおり、家の蔵書の『徒然草』や『十八史略』を面白いからと家に遊びにきた友人にも勧めていた。友人記憶によれば京城中学校友会雑誌に敦の漢詩作文ボードレール訳詩載ったこともあるという。 また湯浅回想によると、3年のとき湯浅数学授業中急進的な総合雑誌改造』を読んでいたときと、4年のとき寄宿舎の中の『痴人の愛』(谷崎潤一郎)が摘発されたときの2度級長の敦が職員室直談判して強く弁護し湯浅停学処分免れたというエピソードもある。 小学校時代同様に中学時代も、敦はきわめて秀で開校以来秀才といわれていた。異母妹背負って子守りしながら中学1年ですでに四書五経読破するなど多く和漢書読み、英語や数理学科成績よかった。だが、いわゆるガリ勉タイプではなく、いつ試験勉強しているのか分らない様子で、時には友達誘い授業サボって裏山登り城壁越えて外の世界散策していたという。そんな敦は友人達から「トンさん」という愛称呼ばれていた。 そうした学業優秀さ活発さ並行し小学4年のときから始まった世界無意味さ感覚につながる「存在不確かさ」という不安も多感な中学時代からつきまとうようになり、「字」という存在自分父親という1人の男の存在など、周囲事物のその必然性偶然性について思い巡らすことも多かった。 丁度、字というものは、ヘンだと思い始めると、――その字を一部分一部分分解しながら、一体此の字はこれで正しいのかと考え出すと、次第にそれが怪しくなって来て段々と其の必然性失われて行くと感じられるように、彼の周囲のものは気を付けて見れば見る程不確かな存在思われてならなかった。 — 中島敦狼疾記」 この京城中学時代14歳のときに、最初継母カツ異母妹産んで数日後死去したため、15歳のとき父は大阪出身新たな継母飯尾コウ迎えた正式な入籍翌年6月)。こうして幼少年時代2人継母暮らした敦だったが、父や継母たちとの折り合い良くはなかった。 新し継母迎えたころ、敦は彼女や父に対して反抗的で父から殴打されたこともあった。敦はなんでも理詰め解釈し頑ななところがあった。異母妹澄子によると、「(兄は)会話をしていても相手受け答えもたもたしていると、すぐかんしゃく起し一度言ったことを二度言わせたり聞き返したりすると、ひどく怒った」という。 三造は彼を生んだ女を知らなかった第一継母は、彼の小学校終り頃に、生れたばかりの女の児を残して死んだ十七になったその年の春第二継母彼のところに来た。はじめ三造はその女に対して妙な不安と物珍しさとを感じていた。が、やがて、その女大阪弁を、また、若く作っているために、なおさら目立つ、その容貌醜くさを烈しく憎みはじめた。そして、彼の父が、彼なぞにはついぞ見せたともない笑顔をその新しい母に向って見せることのために、彼は同じく、その父をも蔑み憎んだ。 — 中島敦「プウルの傍で」 父や継母との距離感孤独にさいなまれていた敦の心を癒すものは、飼い猫けだった生母のいない淋しさから敦はその黒猫をとても可愛がり寝るときもいつも抱いていたので、の方ものように懐いて敦が京城中学から戻ってくるのを家の門のところで待っていたという。 当時京城近隣にいた親族によると、のちの敦の喘息一因にはの毛を常に吸い込んでいたことがあるではないかとしている。そうした生母知らない淋しさ「母」という存在希薄さが、のちの中島文学形成にも影を落としていくことになる(節「「母」の不在」も参照)。 1925年大正14年)の16歳のとき、父親関東庁立大連中学の勤務となり、父が後妻コウ大連引っ越し京城居残った敦が伯母志津京城女学校勤務)の家に移り住んでいた間は少しグレていた様子成績落ちたこともあった。このころ、ある級友頼まれ彼の試験答案代筆したことが発覚し謹慎処分受けたこともあった。 1926年大正15年)には、コウ産んだ三つ子異母弟妹のうち2人の弟が同年中に亡くなる出来事もあった。授業中の蔭で何か他の本を読んでいることが度々あった敦ではあったが、それを見た教師が敦に問題解答指名しても、正確な答え返ってくるため叱ることができなかったという。4年の秋の模擬試験では国漢数学・英語、各200×3600満点中、敦は英語の単語一つ間違えただけで598点をとった。 龍山小学校京城中学時代通して中島敦合わせて5年半を朝鮮半島暮らした初期習作巡査の居る風景」や「虎狩」における植民地時代朝鮮像や朝鮮人描写は、その後得た朝鮮に関する広い社会知識によるところが大きいものの、この頃朝鮮での経験ベースしたものであるとされる(節「植民地への視線」も参照)。

※この「朝鮮での少年時代」の解説は、「中島敦」の解説の一部です。
「朝鮮での少年時代」を含む「中島敦」の記事については、「中島敦」の概要を参照ください。

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