朝鮮での評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 04:18 UTC 版)
李如松は、李氏朝鮮時代の支配層は、頌徳碑を建て、生祠堂を作ろうとまでしたほかに、平壌に武列祠を作り、肖像画を掲げて春秋には祭祀を執り行い、1599年には宣武祠を建て、宣祖は「再造之恩」という額を掲げて、滅んだ国を蘇らせた恩人として崇めたが、今日の韓国では救国の恩人と記憶している人は誰もいないという。 『壬申倭乱と韓中関係』の著者の韓明基は、「再造之恩」を強調することで権威が失墜していた宣祖や大臣は「危機を何とか克服できた苦労のほとんどは明軍のものであり、明軍を参戦させたのは自分たちであることを強調することによって、戦争初期の相次ぐ敗北で失墜した権威をある程度挽回できた」という政治的意味を分析した。 李如松を救国の恩人と美化しているのは官製の記録に限られ、大衆の説話ではあくどい面が浮き彫りにされている。安東大学教授の任在海は、李如松の説話を4つに分類する。 朝鮮の使者が明へ行き、屈辱を受けたにもかかわらず、ついに李如松に援軍を要請した 李如松が朝鮮からたくさんの優れた人物が排出されるのをねたみ、良好な風水の流れを断った 名もない少女が李如松の悪行を阻止し、朝鮮から追い出した 良好な風水の流れをむやみに断ったので、自らの祖父の土地の良好な風水の流れまで断ってしまい、ついに自らも滅んだ 大衆の説話ではあくどい面が浮き彫りにされているのは、平壌城の戦闘で李如松が指揮した明軍の戦果とする日本軍の切り落とされた頭の半数は、朝鮮の民衆であり、李如松が平壌城を攻撃した際に、朝鮮の民衆の頭を切り落とした後、前髪を刈り取り日本軍の頭に偽装して戦果をごまかしたことは、明軍では公然の秘密だった。それは明軍でも問題視され、山東都御史の周維韓は、調査官を送り、網目の帯状頭巾の跡がある朝鮮人の頭と前髪を刈り取った日本軍の頭を識別する作業を行い、責任を追及した。その他、李如松の平壌城攻撃で焼死・水死した朝鮮人が1万人位いたという記録が『宣祖実録』に出ており、老斤里事件を凌ぐ虐殺を李如松は行った。 大衆の説話では、李如松は名もない少女・若者・老人・山神などにより、朝鮮から追い出されたことになっている。李如松の死に哀悼一色だった朝廷とは異なり、説話では「李如松は自分で自分の首を絞めたうえに、彼の子孫まで没落させた」と高笑いしており、任在海は「大国と小国の間の、従属関係や血縁関係や血盟関係などでは、互恵平等の原則に基づく善隣関係を維持できなことを認識」していたという。
※この「朝鮮での評価」の解説は、「李如松」の解説の一部です。
「朝鮮での評価」を含む「李如松」の記事については、「李如松」の概要を参照ください。
- 朝鮮での評価のページへのリンク