朝鮮としての渤海の再解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 20:02 UTC 版)
「朝鮮民族主義歴史学」の記事における「朝鮮としての渤海の再解釈」の解説
李氏朝鮮中期に、朴趾源は、漢王朝の領土が鴨緑江の南に広がっていたという事実を否定し、満州の渤海を朝鮮の歴史から除いた金富軾を批判し、渤海は高句麗の「子孫」だったと主張した。李圭景は、渤海の朝鮮の歴史からの除外は「それが広大な領域を占めていた」ため、「重大な誤り」だと主張した。しかし、李氏朝鮮後期、渤海の創設者が朝鮮人とは考えられない靺鞨の人々であったことを認めるにもかかわらず、渤海を朝鮮の歴史に含める歴史家が増えた。18世紀には次のように意見が分かれていた。学者星湖李瀷(ko:이익 (1681년))と安鼎福は渤海を朝鮮の歴史の一部と考えることを断固として拒否し、一方、申景濬(ko:신경준)と柳得恭はそれを完全に組み込んでいた。一世紀後、韓致奫(ko:한치윤)と韓鎭書(한진서)は、新羅のような議論のない朝鮮の王朝と等しいものとして渤海を朝鮮の歴史の中に含めた。申采浩は、渤海や夫余王国(別の満州国家)を朝鮮の歴史から除いたと『三国史記』を批判した。彼は、渤海が女真の金王朝(1115–1234)に敗れたことを「私たちの祖先[檀君]の古代の土地の半分を…900年以上の間[失った]」と解釈した。北朝鮮の学者、およびより最近の韓国の何人かの学者は、統一新羅が朝鮮を統一したとの見解に挑戦することにより、渤海の歴史を朝鮮の歴史の不可欠な部分として組み込もうとした。この物語によると、渤海が朝鮮半島北部の旧高句麗の領土を占めながらまだ存在していたから、高麗が最初の朝鮮統一だった。
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