朝鮮で暮らした中島の少年時代
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「巡査の居る風景」の記事における「朝鮮で暮らした中島の少年時代」の解説
両親の離婚など複雑な家庭環境の中、中島敦は教師の父の転勤で奈良県から静岡県へと小学校の転校を重ね、11歳の1920年(大正9年)には、当時日本の植民地であった朝鮮半島の京城府龍山公立尋常小学校に転校した。小学校卒業後は公立京城中学校に進み、4年で卒業する1926年(大正15年)3月までの約5年半を朝鮮半島で暮らした。 こうした多感な少年期における相次ぐ転校や「外地」朝鮮での生活体験が、日本や自分を外側から眺めるという中島の客観的視点を育んだ要因の一つだといわれる。中島自身も、一般の人々が口にする「故郷」という懐かしみの感覚(愛郷心)が分からなかったと述べている。 中島親子が朝鮮に渡った時の最初の住まいは、京城府漢江通り6番地の龍山地区にあった。龍山地区は、日本が1904年(明治37年)に建設した軍用鉄道の京義線の始発地で、朝鮮司令部があった場所だった。一家が住んでいた地域は「南村」と呼ばれる日本人居住地域であったため、朝鮮とはいえ日本式の地域空間であった。また、「キチベエ」「カンナニ」という朝鮮人少女を家政婦として雇っている家が多かった。 小学校を卒業し京城中学校に入学すると、西大門駅北側の慶煕宮の敷地に位置する中学校に行くために電車(市電)通学となった。当時の京城中学校には、門衛がいつも2、3人立っている西洋式の鉄門や、守衛の溜りになっている大きな交番のようなものがあり、門衛や守衛は朝鮮人が務めていた。 中学時代の思春期の回想を綴った中島の習作『プウルの傍で』(1932年8月頃執筆)では、主人公の三造(中島自身の投影)が京城の色街に行き、朝鮮人の娼婦を買うエピソード(性交渉はない)などが描かれている。そうした青春時代の朝鮮散策から、中島は学校周辺の北村の朝鮮人街にも足を踏み入れていたものとみられている。 同校には朝鮮人同級生もおり、『虎狩』(1934年)の同級生で朝鮮貴族の子息・趙大煥のモデルと推察される柔道部の「趙」という大柄の生徒や、「金大換」という生徒、あるいは「趙」という背の高いハンサムで大人しい生徒(母親は日本人)がいたとされる。日本人の同級生には湯浅克衛、小山政憲がいた。 湯浅は当時水原に住んでいたため、同級生から「水原豚」(スイゲン・ピッグ)という渾名で呼ばれていた。湯浅の父親・湯浅伊平は、元々は朝鮮の守備であったが、その後1916年(大正5年)に守備隊をやめた後、朝鮮での巡査試験に合格し警察署に勤務していた。この湯浅の父親の職業が中島の『巡査の居る風景』のヒントになった可能性も推察されている。 なお、湯浅が書いた植民地小説『カンナニ』が1935年(昭和10年)に活字として『文学評論』に発表されるが、この作品は、朝鮮貴族邸の請願巡査の息子・龍二(12歳の日本人少年)と、その邸の門番の娘・カンナニ(14歳の朝鮮人少女)の純愛を、「三・一運動(万歳事件)」を背景に描いた悲劇的な物語である。
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