朝鮮で暮らした中島の少年時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 朝鮮で暮らした中島の少年時代の意味・解説 

朝鮮で暮らした中島の少年時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:06 UTC 版)

巡査の居る風景」の記事における「朝鮮で暮らした中島の少年時代」の解説

両親離婚など複雑な家庭環境の中、中島敦教師の父の転勤奈良県から静岡県へと小学校転校重ね11歳1920年大正9年)には、当時日本植民地であった朝鮮半島京城府龍山公立尋常小学校転校した小学校卒業後公立京城中学校進み4年卒業する1926年大正15年3月までの約5年半を朝鮮半島暮らしたこうした多感な少年期における相次ぐ転校や「外地朝鮮での生活体験が、日本自分外側か眺めるという中島客観的視点を育んだ要因一つといわれる中島自身も、一般の人々が口にする「故郷」という懐かしみの感覚愛郷心)が分からなかったと述べている。 中島親子が朝鮮渡った時の最初住まいは、京城府漢江通り6番地龍山地区にあった龍山地区は、日本1904年明治37年)に建設した軍用鉄道京義線始発地で、朝鮮司令部があった場所だった。一家住んでいた地域は「南村」と呼ばれる日本人居住地域であったため、朝鮮とはいえ日本式地域空間であったまた、「キチベエ」「カンナニ」という朝鮮人少女家政婦として雇っている家が多かった小学校卒業し京城中学校入学すると、西大門駅北側慶煕宮敷地位置する中学校に行くために電車市電通学となった当時京城中学校には、門衛がいつも2、3立っている西洋式鉄門や、守衛溜りになっている大きな交番のようなものがあり、門衛守衛朝鮮人務めていた。 中学時代思春期回想綴った中島習作『プウルの傍で』(1932年8月頃執筆)では、主人公の三造(中島自身投影)が京城色街行き朝鮮人娼婦を買うエピソード性交渉はない)などが描かれている。そうした青春時代朝鮮散策から、中島学校周辺北村朝鮮人街にも足を踏み入れていたものとみられている。 同校には朝鮮人同級生もおり、『虎狩』(1934年)の同級生朝鮮貴族の子息・趙大煥のモデル推察される柔道部の「趙」という大柄生徒や、「金大換」という生徒、あるいは「趙」という背の高いハンサムで大人しい生徒母親日本人)がいたとされる日本人同級生には湯浅克衛小山政憲がいた。 湯浅当時水原住んでいたため、同級生から「水原豚」(スイゲン・ピッグ)という渾名呼ばれていた。湯浅父親湯浅伊平は、元々は朝鮮守備であったが、その後1916年大正5年)に守備隊をやめた後、朝鮮での巡査試験合格し警察署勤務していた。この湯浅父親職業中島の『巡査の居る風景』のヒントになった可能性推察されている。 なお、湯浅書いた植民地小説『カンナニ』が1935年昭和10年)に活字として『文学評論』に発表されるが、この作品は、朝鮮貴族邸の請願巡査息子龍二12歳日本人少年)と、その邸の門番の娘・カンナニ(14歳朝鮮人少女)の純愛を、「三・一運動万歳事件)」を背景描いた悲劇的な物語である。

※この「朝鮮で暮らした中島の少年時代」の解説は、「巡査の居る風景」の解説の一部です。
「朝鮮で暮らした中島の少年時代」を含む「巡査の居る風景」の記事については、「巡査の居る風景」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「朝鮮で暮らした中島の少年時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「朝鮮で暮らした中島の少年時代」の関連用語

1
巡査の居る風景 百科事典
6% |||||

朝鮮で暮らした中島の少年時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



朝鮮で暮らした中島の少年時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの巡査の居る風景 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS