朝鮮との関係
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鎌倉時代の初期、嘉禄元年(1225年)頃より松浦党は高麗に押しかけ、倭寇の源をなした。藤原定家の日記『明月記』は、嘉禄2年(1226年)に対馬が高麗と抗争したことや、松浦党が兵船数十艘で高麗を侵したことを伝えている。さらに『吾妻鏡』貞永元年(1232年)閏9月17日の条によれば、肥前国鏡社(現佐賀県唐津市鏡)の住人が、高麗に渡り夜討ちをして多くの珍宝を盗み取り帰国していたことが記されている。海賊の活動に苦しんだ高麗は、しばしば鎌倉幕府に使節を送り、取り締まりの強化を申し入れた。これを受け、幕府は肥前国守護武藤資頼に命じ、海賊行為の張本人と思われる対馬島人90人を捕らえ、高麗国使の面前で斬首したことがあった。この中には松浦党も多数含まれていたと思われる。元寇の以後は更に甚だしくなった。したがって朝鮮国王は使をよこして禁寇の交渉を行い、室町時代には嘉吉元年(1441年)から文明3年(1471年) の間、松浦党と歳遣船の約を結んだ。
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朝鮮との関係
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「ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇」の記事における「朝鮮との関係」の解説
清を宗主国と仰いでいた朝鮮は、明治9年(1876)に開国した。しかし国内には旧来の伝統に固執する人々が多かった。そうした中で、近代国家の建設を目指すグループもあった。その代表的人物が金玉均である。金は自国より先に近代化を進めていた日本を手本として、日本政府に支援も要請した。しかし清との全面衝突を恐れた政府は、支援に消極的であった。これに対して玄洋社は一貫して金玉均を支援した。頭山満が金自身の才能を見抜いたことと、西洋に対抗するために朝鮮の独立が不可欠だったことが理由である。
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