西力東漸と「日清朝」の外交政策等とは? わかりやすく解説

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西力東漸と「日清朝」の外交政策等

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:03 UTC 版)

日清戦争」の記事における「西力東漸と「日清朝」の外交政策等」の解説

19世紀半ばから東アジアは、西洋列強脅威さらされた。その脅威17世紀西洋進出違い経済的側面だけでなく、政治的勢力としても直接影響与えた。ただし、列強各国利害関心、また日清朝の地理と経済条件政治体制社会構造などにより、三国への影響異なった詳細は「アヘン戦争」および「アロー戦争」を参照 大国の清では、広州一港に貿易限っていた。しかし、アヘン戦争(1839 - 42年)とアロー戦争(1857 - 60年)の結果多額賠償金支払った上に、領土割譲11港の開港などを認め、また不平等条約締結したこのため1860年代から漢人官僚曽国藩李鴻章等による近代化試みとして洋務運動展開され自国伝統的な文化制度土台しながら軍事中心に西洋技術導入進めた中体西用)。したがって近代化動き日本大きく異なる。たとえば外交は、近隣との宗藩関係(冊封体制)をそのままにし、この関係にない国と条約結んだ詳細は「黒船来航」および「明治維新」を参照 日本ではアメリカ艦隊来航幕末の砲艦外交)を契機に、江戸幕府鎖国から開国外交政策転換し、また西洋列強不平等条約締結したその後新政府誕生すると、幕藩体制代わり西洋式近代国家志向された。新政府は、内政中央集権文明開化富国強兵などを推進するとともに外交条約改正隣国との国境確定清・朝鮮との関係再構築国際法則った近代的外交関係の樹立)など諸課題取り組んだ結果的に日本近代外交は清の冊封体制摩擦起こし日清戦争でその体制は完全に崩壊することとなる。 詳細は「李氏朝鮮#攘夷と開国」を参照 朝鮮では、摂政大院君進めた衛正斥邪運動が高まる中、1866年同治5年)にフランス人宣教師9名などが処刑された(丙寅教獄)。報復として江華島侵攻したフランス極東艦隊軍艦7隻、約1,300人)との交戦勝利し撤退させた(丙寅洋擾)。さらに同年通商求めてきたアメリカ武装商船との間で事件起こったジェネラル・シャーマン号事件)。翌1867年同治5年)、アメリカ艦隊5隻が朝鮮派遣され同事件の損害賠償条約締結とを要求したものの、朝鮮側抵抗にあって艦隊去った辛未洋擾)。大院君は、仏米の両艦隊退けたことで自信深め旧来の外交政策である鎖国攘夷続けた

※この「西力東漸と「日清朝」の外交政策等」の解説は、「日清戦争」の解説の一部です。
「西力東漸と「日清朝」の外交政策等」を含む「日清戦争」の記事については、「日清戦争」の概要を参照ください。

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