外交関係の樹立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:57 UTC 版)
「日本とスイスの関係」の記事における「外交関係の樹立」の解説
1847年に分離同盟戦争が終結し、1848年に新憲法が制定されると、スイスは産業革命と経済成長の時代に入り、時計産業界は新たな市場を求めた。 同時期の日本では、1853年(嘉永6年)6月にはアメリカ合衆国の使節ペリーが浦賀に、同年9月にはロシア使節プチャーチンが長崎に来航している。当時のスイスは上述のように産業革命を達成しており、製品の販路拡大を求めていながらも、ナポレオン3世下のフランスとプロイセンという強力な隣国におさえられていたという背景があったため、スイス産業界は日本の開国に期待を寄せた。実際、1853年の10月にはスイスの有力紙『ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング』が日本の開港に関する記事を報道しており、スイスの貿易業界は直ちにこのニュースに反応を示したと言われる。 1858年(安政5年)、日本は日米修好通商条約の締結を皮切りに、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとほぼ同内容の条約を結んだ。同年にスイスでも日本への使節派遣の機運が高まり、西部スイスの「時計業組合」とザンクト・ガレンの商業局によって、ルドルフ・リンダウ(ドイツ語版、英語版)が1859年(安政6年)から1860年(万延元年)にかけて派遣されたが、幕府に拒絶された。 この後、日本では1860年3月の桜田門外の変をはじめ、ヒュースケンの殺害、東禅寺事件など攘夷排外運動が激化したため、幕府は新たな条約締結を求める外国使節の派遣を断っていた。もっとも、ポルトガルやプロイセンはこのような中でも通商条約の締結に成功しており、スイスも引き続き締結を目指したもののうまくいかなかった。こうしてスイスの日本熱は冷め、使節派遣準備も一時遅滞した。 結果的に、連邦政府は1862年末になってからエメ・アンベールを特命全権公使に任命し、条約交渉を進めさせた。彼はオランダの外交官ディルク・グラーフ・ファン・ポルスブルック公使の仲介のもと、1863年に来日して以来交渉を進め、1864年2月6日(文久3年12月19日)、14代将軍徳川家茂の治世において日本とスイスの二国間関係における史上初の修好通商条約(日本瑞西国修好通商条約)の締結に成功した。またこの際、アンベールは日本の社会状態を克明に観察し、1870年にパリで『幕末日本図絵』二巻本として出版した。 また日本からのスイス訪問に関しては、1867年の徳川昭武の使節団が最初にスイスを訪れた日本人である。彼らはこの年にパリで開かれた万国博覧会に参加したおり、ジュネーブやベルンを10日間に渡って訪問している。さらに1870年、後に日清・日露戦争で武功を挙げて元帥となる当時20代の大山厳がジュネーブに留学し、1873年まで当地で修学した。同じく1870年、明治政府の使節としては初となる岩倉遣欧使節団もスイスを訪問している。その後正式な外交ルートは1879年に駐仏公使がスイス公使を兼任することで始まった。
※この「外交関係の樹立」の解説は、「日本とスイスの関係」の解説の一部です。
「外交関係の樹立」を含む「日本とスイスの関係」の記事については、「日本とスイスの関係」の概要を参照ください。
- 外交関係の樹立のページへのリンク