初期の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 04:43 UTC 版)
日本とペルーの関係はスペインがペルーを統治していた時代に始まる。スペインの商人や宣教師がメキシコのアカプルコやフィリピンのマニラからマニラ・ガレオンを用いた取引を介して知られていた。 マニラでは、スペイン人商人が日本人商人と取引し商品を当時のスペイン領アメリカに輸送していた。1821年、ペルーはスペインからの独立を宣言し、また19世紀半ばには日本が開国し、いくつかの国と外交関係を持つようになった。 正式な外交関係の樹立に先立って1872年6月、232人の中国人苦力を載せたペルー船「マリア・ルス」が、マカオからカヤオへ向かう途中に深刻な暴風雨に見舞われて損耗し、日本の横浜港に寄港した。港ではある中国人労働者が逃げ出して岸に飛び乗った。岸に着くと、労働者は重度の虐待について不平を言い、保護と船上での仲間の労働者の救助を求めた2人目の労働者が船から脱出した後、日本の当局は船に乗り込み、中国国民が非人道的な状況下で彼らの意思に反して拘束されていることを発見した。多くの人が誘拐され、ほとんどの人は最終目的地の場所を知らなかった。 日本の裁判所は「マリア・ルス」の船長、リカルド・エレーラを不正行為で国際法に違反したとして告発し、中国国民を解放した。1873年に入り、日本とペルーは日秘修好通商航海条約に調印して外交関係を正式に締結した。 1899年、790人の日本人移民が佐倉丸でペルーへと渡った。ほとんどの移住者はさまざまな農園で働くためにこの国にやってきた。 1936年までに、 23000人の日本人移民がペルーに移住した。第二次世界大戦中、ペルー人はリマで600人以上の日本人が住む家や企業を攻撃し、10人の日本人を殺害し数十人を負傷させた。1942年1月には、日本の真珠湾攻撃を受けて国交を断絶した。 その後まもなく、アメリカ合衆国からの圧力が強まったためペルーは危険な敵国人からラテンアメリカを守るため、1700人の日系ペルー人をアメリカに国外追放し、アメリカの収容所へと送った。戦後、ペルーは日本との国交を回復し、1959年には岸信介首相が職員をペルーに派遣した。1961年には、ペルーの大統領マヌエル・プラド・イ・ウガルテチェがラテンアメリカの首脳で初めて日本を訪問した。
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