初期の開発業者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/11 16:31 UTC 版)
「アバロン (カリフォルニア州)」の記事における「初期の開発業者」の解説
1860年代、ドイツからの移民オーガスタス・ウィリアム・ティムズがカタリナ島で牧羊を始めた。ティムズの持ち船ロシータが海水浴や釣りに来る人々を、海峡を渡ってアバロン湾まで運んでいた。アバロンにあった町は、ティムズに因んでティムズランディングと呼ばれていた。1883年夏までに30のテントと3つの木造建物がある状態だった 。 アバロン湾をリゾート地にしようとした最初のオーナーは、ミシガン州グランドラピッズ出身の不動産投機家ジョージ・シャットーだった。1887年の南カリフォルニア不動産ブームの頂点にある時に、ジェイムズ・リックの所有地からこの島を15万米ドルで購入した。後にアバロンとなる町を創設し、町で初となるホテルのホテル・メトロポールと桟橋を造ったとされている。初期の地図には町名を「シャットー」としているが、シャットーの義妹であるエッタ・ホイットニーが「アバロン」という名前に思い当たった。この名前はアルフレッド・テニスンによるアーサー王に関する『国王牧歌』という詩からの引用だった。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}シャットー夫妻と私は新しい町の名前を探していた。その名はこの場所に相応しいものである必要があった。私が探していた名前は「エイボン」や「エイボンデール」であり、そこで「アバロン」という名前を見つけた。その意味はウェブスター辞典の完全版にあるように「大洋の明るい宝石」あるいは「祝福された人々の美しい島」だった。 —Etta Whitney. シャットーがアバロンの町の区画を定め、一般大衆に休暇の目的地として紹介した。1887年にはアバロンで不動産の競売を開催することで宣伝し、日々の島への往復のために蒸気船を購入した。1888年夏、小さなパイオニアの村がブームを呼ぶ小さなリゾート町として始まった。シャットーの努力にも拘わらず、数年間のうちに借金の返済ができなくなり、島はリックの資産に戻された 。 アバロンに現存する最古の建築物は特徴あるホリーヒル家屋であり、シャットーとその代理人から500米ドルで購入した区画に、1888年に建てられた。カタリナで最初の上水道を造った技師のピーター・ガノが、船で運んできた建材を年取ったサーカスの馬マーキュリーの助けを借りて岡の上に運び上げ、この家を自分で建てた。1889年に完成したとき、愛する女性にこの家に来てくれるよう頼んだ。彼女が島に移転することを拒んだので、ガノは一人でそこに住んでいた。この家は近年改修され、アバロンの良く知られた目印になっている。 1891年にフィニアス・バニングの息子達がこの島をリックから購入し、サンタカタリナ島会社を設立して、リゾートとしての開発を目指した。バニング兄弟は、アバロンをリゾート町とするシャットーの夢を実行した。町の中心にダンスホールを建設し、ホテル・メトロポールと蒸気船桟橋を拡張し、水族館を造り、ピルグリム・クラブ(男性のみの賭博クラブ)を創設した。 バニング兄弟が新しくホテル・セントキャサリンの建設を計画しているときに、1915年11月29日、火事によってホテル6軒や数軒のクラブを含めアバロンの建物の半分が焼失し、計画は挫折した。バニング兄弟は町の再建を期待して島の売却を拒み、ホテル・セントキャサリンの計画を始めた。このホテルはアバロン港の北外れにある特徴あり、絵のような崖のある半島、シュガーローフ・ポイントに建つことになっていた。別館をデスカンソ・キャニオンに持つこのホテルの建設を始めるために、崖は爆破された。これらの計画は資金不足で失敗しており、結局ホテルはデスカンソ・キャニオンに建てられた。1919年、1915年の火災に伴う負債と、第一次世界大戦による観光業の衰退のために、バニング兄弟は島を分割して売らざるを得なくなった。
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