初期の陰謀計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:17 UTC 版)
ジェームズが戴冠した1603年7月前後に、2件の大きな陰謀事件が発覚した。ジェームズがカトリック教徒への迫害をやめる兆しが見えない中で、数人の聖職者(反イエズス会の2人の神父を含む)が、自分たち手で決着をつけることを企てた。後にバイ陰謀事件と知られるこの計画は、ウィリアム・ワトソン(英語版)とウィリアム・クラーク(英語版)の2人の神父がジェームズを誘拐してロンドン塔に監禁し、カトリックへの寛容政策を迫るというものであった。セシルは、ジョージ・ブラックウェル(英語版)主席司祭(英語版)ほか複数の関係者からこの計画の情報を知らされ、またブラックウェルは司祭たちに一切関与しないよう命令した。一方ではほぼ同時期に、コバム男爵ヘンリー・ブルック(英語版)、グレイ・ド・ウィルトン男爵トマス・グレイ(英語版)、グリフィン・マーカム(英語版)、ウォルター・ローリーの4人が、ジェームズとその家族を排除して、アラベラ・ステュアートを王位に迎えるといういわゆるメイン陰謀事件が画策されていた。彼らはスペインのフェリペ3世に資金援助を求めていたが、失敗に終わった。両方の計画は未遂のまま露見して関係者らは逮捕され、同年秋には裁判が始まった。ブルックの弟ジョージ(英語版)は処刑されたが、治世の開始を血生臭いものにしたくないジェームズの計らいによって、ブルック、グレイ、マーカムの3人は処刑台に立たされた上で恩赦を受けた。彼らの処刑を見せつけられた数日後に処刑されることになっていたローリーもまた、赦免された。アラベラは陰謀のことは知らなかったと否定した。また、バイ陰謀事件の主犯であった2人の神父は断罪され、「非常に血生臭い」罰を受けた後、処刑された。 こうした陰謀事件のニュースはカトリック社会に衝撃を与え、更なる迫害の危機を想起させた。しかし、実際には陰謀の露見によって迫害の手は緩められることになった。ジェームズは訴えられていた国教忌避者たちに恩赦を与え、罰金の支払いにも1年の猶予を与えた。
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