初期の雷撃構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/07 16:40 UTC 版)
1930年(昭和5年)、廃艦の「明石」に対して、初めて実頭部での雷撃実験が行われた。このときの実頭部は呉工廠で応急試作したものだった。3本発射して、2本を命中させることができた。1931年(昭和6年)には当時の飛行機としてはかなりの高高度からの発射による雷撃も可能となった。 1930年には、九一式航空魚雷は成瀬少将(終戦時)が開発を開始し、1931年に兵器制式採用された。 航空本部所属、横須賀空技廠の開発チームは、航空魚雷の最大射程は 2,000m(1.8 海里)以内で可能、と結論付けた。航空機が40ノットで走行する魚雷を放つとき、速度30ノットで走行中の目標艦船は確実に急激な回避行動を行う。そこで雷撃パイロットは攻撃する目標にできるだけ接近することが必要になった。 1934年のはじめ、艦政本部(海軍省所属で海軍の兵器システム全般の責任と実務を担当する部署)は、日本の航空魚雷について独自のプランとプロジェクトをもっていた。艦政本部のプランは、敏捷ではない巨大飛行艇が大きく重い九三式「酸素魚雷」を運んで、長距離射程で射出し、安全に基地に戻る、という構想だった。後に、それは非現実的な机上プランだということが解った。しかし当時、艦政本部は機密裏に、九三式酸素魚雷の航空魚雷型である、独自の九四式航空魚雷を開発していた。艦政本部の保有する川西九七式大艇は、1934年の初試験飛行に大成功を収めていた。 艦政本部は独自プランの破却に伴い、九一式魚雷の生産までも生産停止を命じたので、九一式魚雷を基にした航空魚雷の開発スケジュールは著しく遅れた。このため、横須賀海軍工廠の開発メンバーたちは右往左往し、混乱させられた。
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