初期の陸軍航空教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:58 UTC 版)
「浜松陸軍飛行学校」の記事における「初期の陸軍航空教育」の解説
詳細は「所沢陸軍飛行学校」を参照 1912年(明治45年)、陸軍は「操縦術修業者」を気球隊に分遣し、埼玉県入間郡所沢町の飛行試験場(のちの所沢陸軍飛行場)で航空関係の体系的な教育を始めた。1915年(大正4年)12月、所沢に航空大隊が創設されると教育は航空大隊の担任となり、ひき続き所沢で行われた。1919年(大正8年)1月より11月まで、ジャック=ポール・フォール(フランス語版)大佐を長とする「フランス航空団」とよばれる航空教育軍事使節団が来日し、教育指導、技術開発指導その他を行った際には、爆撃の教育はフランス航空団の助言を取り入れ静岡県三方原で行われた。 同年4月、陸軍航空の現業軍政と専門教育を統轄する陸軍航空部が設立され、同時に所沢に陸軍航空学校が開設された。同校の学生は甲種、乙種、丙種にわけられ、そのうち丙種学生は機関工術、射撃、爆撃等の修習をする学生であった。同年12月、陸軍航空学校教育部は分科ごとに教育班を新設したが、爆撃班は飛行機に適当なものがなく、業務も活発ではなかった。
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