初期の隠蔽と腐敗、人民の窮乏
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「中華人民共和国大飢饉」の記事における「初期の隠蔽と腐敗、人民の窮乏」の解説
地方の党指導者たちは、自分たちの生活と地位を守るために、不足分を隠蔽したり、責任を転嫁したりするために共謀していた。1958年と1959年に出生率が急落し始め死亡者が増加している中にあっても、毛は農村部の村人が飢餓に苦しんでいることに気づかないようにされていた。 1957年のソ連によるスプートニク1号打ち上げにあやかって、「衛星(スプートニク)を打ち上げる」と称して新たな目標達成が中国全土で競われ、突拍子もない数値が吹聴された。1958年の河南省への訪問で毛は、大規模な24時間の奮闘で成し遂げられた1000から3000パーセントの収穫量の増加を地元当局から報告された。しかし、この数字は捏造されたものであり、毛が観察した畑もまた同様であった。現地の役人は、毛の訪問に先立ってさまざまな畑から穀物の芽を取り除き、特別に用意された畑に慎重に移植して準備を整えて豊作を装った。 地元の役人は、毛へのこれらの見せかけのデモンストレーションに囚われ、「深耕と密植」などの手法によって、達成不可能な目標を達成するよう農民に勧めた。これは事態をさらに悪化させることとなり、作物は完膚無きまでの不作となり、不毛の畑が残された。毛の考えに異議を唱えられる立場にある者は誰一人としていなかったので、農民は茶番を維持するために極限まで努力した。一部の者は、育苗した作物を畑に"植えて"、作物がよく育ったように見せかけた。びっしりと稲の苗が植えられた実験農場を視察した毛が帰ると、稲は元の田に再び植え直された。浙江省のある村では、幹部が村への出入り口を閉鎖して老人や乳飲み子を家に残してきた妊婦でさえも関係なく畑を離れることを禁じ、昼夜を分かたず農作業を強いた。密植に反対した者は党の宣伝隊に殴られ、反抗的な素振りを見せた老人は髪の毛を掴まれて溝に顔を押し付けられた。しまいには、苗を引き抜いて最初から全部やり直すよう、村の人々は命じられた。 ソビエトが引き起こしたウクライナの大飢饉(ホロドモール)のように、医師は死亡診断書に死因として「飢餓」を記載することを禁じられていた。この種の欺瞞は珍しいことではなかった。当時の有名なプロパガンダ写真 に、山東省の中国人の子供たちが畑で緊密に実った小麦の上に立って「密植」の成果を誇示しているものがあるが、実際には彼らが立っているのは小麦ではなく、足元に隠されたベンチであった。そして「畑」もまたすべて個別に移植された稈で偽装されていた。断片的な情報から一部西側メディアも中国大陸で飢饉が起きていることを報道したが、共産党政府はそれらすべてを"悪辣な攻撃""デマによる中傷"として排斥した。国外から中国へ訪問した"友好人士"たちは、訪問地・接触する人々・接待するときのセリフなどがすべて綿密にお膳立てされた招待旅行で見聞した体験をもって、中華人民共和国の"偉大な成果"を賛美した。 毛は、収穫量の水増しが周知の事実となっていた時期に当たる、1959年3月においてもなお「三分の一を超えなければ、人民は反政府行動に出ないだろう」と述べて国による食料の買い上げ量を増やすよう奨励しており、1960年には共産党政府は何よりも輸出を優先するとする「出口第一」を掲げて事実上の飢餓輸出を行っていた。周恩来や鄧小平もまた毛の走狗と化して四川省などへの容赦ない徴発を指示して回った。買付のノルマを達成するために地方では農家への迫害が行われ、自殺に追い込まれた農民も少なからずいた。 飢饉が進むと、日に日に飢えが人民の暮らしを蝕むようになった。ありとあらゆるものが売りに出され、売春が横行し、人々は家や服を手放し、しまいには自分の血液を売り、子供を僅かな現金や食料と交換するか遺棄した。頼れるものを失った人民の多くが生きるために盗みに手を染め、安徽省の農民の一人はその様を「食べ物を盗むことができない者は死んだ。何としてでも盗んだ者は死ななかった」と語った。一部の地元幹部は飢饉を乗り切らせるために民兵たちの目を盗んで穀物を農民に分け与えたものの、多くの地域で、隣人が、友人が、親族が、互いに盗み合い、奪われた者や盗みを見つけられた者には死が待っていた。珠江では、香港やマカオへの逃亡を図って溺れたり国境警備隊に射殺された、人々の死体が漂っていた。他方で強欲な幹部や共産党にうまく取り入った者たちは「大喫大喝(食べまくり飲みまくる)」と呼ばれた宴会を開いたり、職権を濫用し、食料を横領する者が後を絶たなかった。すべての階級の者が共産主義が排除しようとしたはずの個人利益の追求に血道を上げ、飢饉を生き延びられるかどうかは、賄賂やコネ、嘘や媚、盗みや密輸その他諸々の犯罪の才能にかかっていた。
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