茶番
茶番(ちゃばん)とは、簡単に底が割れる(筋道や結果や魂胆が見え透いている)ような馬鹿げた振る舞いを意味する表現。「茶番劇」ともいう。もしくは、「茶番劇」を略して「茶番」とも解釈できる。
茶番はもともとは「お茶汲み当番」のことであり、つまり文字通りお茶の用意をする者(役割)を意味した。かつての芝居小屋では、下働きの役者見習いが茶番をしたが、その茶番らが暇を見つけて余興演芸に興じるようになり、その即興の芝居を茶番というようになった。これが転じて「見え透いた下手くそな」「ばかばかしい」行動を指すことになった、とされている。
かつて芝居小屋で行われた「茶番」は、その形態によって「立茶番」(または「茶番狂言」)と「口上茶番」に大別される。「茶番劇」はここには含まれない。茶番劇は、現代の用法である「ばかばかし振る舞い」の異称である。
ちゃ‐ばん【茶番】
俄
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俄(にわか)とは、江戸時代から明治時代を中心に、宴席や路上などで行われた即興の芝居。仁輪加、仁和歌、二和加などとも書く。江戸の茶番(ちゃばん)も類似の芸と思われる。
名前の由来には諸説あり、ひとつは俄狂言(にわかきょうげん)の略で[1]、狂言(芝居)をにわかに演じたことからこう呼ばれたとされる。路上で突然始まり衆目を集めたため、「にわかに始まる」という意味から「俄」と呼ばれるようになったとも伝えられる。
内容は歌舞伎の演目の内容を再現したものや、滑稽な話を演じるものが一般的とされる。しかし、吉原俄は踊りが中心で、全国の民俗芸能では滑稽踊りを中心に仮装での祭りの行列、漫才のような掛け合いなどさまざまな滑稽事が俄の名で呼ばれている。
起源
起源については定かではないが、天和時代の京島原遊廓に源流の芸が存在した。安永時代 (1772 – 1780年) の諸書に俄の芸が登場する。
にわか研究の第一人者でもある歌舞伎研究者・佐藤恵理によると、民俗芸能として全国各地で俄と呼ばれるものの内容は①オチのついたコント、②踊り、③獅子舞、④仮装、⑤行列、⑥山車や屋台などの造り物と多岐にわたる。長い歴史の中で変化・派生した結果とも考えられるが、このような多彩な内容を中世では総じて「風流」といった。この風流は前近代までの文学芸術を貫く美意識と別ものではなく、特に祭りに迎える神に奉る地域社会の民衆の美的行動をいい、即席を目指した新鮮な趣向をその本質とする。俄はこの風流の直系に立つ。風流は芸能史の動力として近世の歌舞伎を生み、俄は近代明治の新しい演劇である喜劇と新演劇を生み出した[2]。
各地の俄
大阪俄
大坂では浜松歌国著の「摂陽奇観」には享保時代に俄の芸能が存在したことがうかがえる。宝暦・明和時代には職業化されだし道頓堀相合橋には俄専門の舞台が作られた。寛政時代以後で、独自の芸名で江戸(東京)の寄席などに進出した。天保時代には村上杜陵が人気を博し、その後活躍からのちに大阪俄の中興の祖といわれるようになる。
文化時代以降には初春亭新玉、初春亭琴玉、豊年斎米加、磁石亭喜多丸、白象亭和楽、小松屋市丸、幕開亭三喜、信濃家尾半らが活躍。明治に入るまで彼らの門流が活躍した。
明治初年には御霊神社(現・中央区)にて柴田席の寄席小屋を開き、以降坐摩神社の吉田席、博労町の稲荷座など次々開場。明治中期には大和家宝楽、秋の家田螺、初代鶴家団十郎、大門亭大蝶、京都の三代目宇治の屋茶楽が人気を博した。中期以降は初代大阪屋町人、その町人に影響を受けた二代目一輪亭花咲、鶴家団九郎(のちの二代目鶴家団十郎)らが活躍。二代目花咲は1981年(昭和56年)に亡くなるまで一線で活躍した。以降大正期まで夜明家ガストウ、井上ハイカラなどがいた。一方で曾我廼家五郎、十郎が俄を飛び出し、喜劇の興行を打ち成功をする。1933年(昭和8年)には初代鶴家団十郎の門下の鶴家団道理らがNHK大阪放送局から「太閤記・十段目」を全国に生中継した。太平洋戦争後以降二代目花咲の指導の下で二代目露の五郎兵衛が二代目大阪屋町人や三代目一輪亭花咲を名乗って活動し、以降弟子らで受継がれている。
これらは新喜劇につながる系譜とされ松竹新喜劇の旗揚げメンバーであった曾我廼家十吾は子役の俄師として大門亭大蝶の一座にいた、また初代渋谷天外、田村楽太も俄出身でともに楽天会の主宰していた。
現在一般的な漫才などのお笑い文化の源流であると考えられていて、横山エンタツ・花菱アチャコのエンタツもかつて俄の流れをくむ時田一瓢の瓢々会にいた、またエンタツのかつての相方の杉浦エノスケも鶴家団九郎(のちの二代目鶴家団十郎)の門下であった、ほかにも林家染団治、林田五郎、林田十郎、浮世亭歌楽らが俄出身であった。また俳優として一時代を築いた鶴田浩二の叔父は二代目鶴家団十郎の門下の鶴家団福郎であった。
九州俄
博多俄
幕末にはすでに岡崎屋嘉平、馬場の宗七、市小路の吾平らが活躍。1879年(明治12年)には鬼若組が組織され、麩屋組、川丈組などが次々組織された。明治後期以降は初代博多淡海が活躍。大正以降は衰退するが、その芸は実子二代目博多淡海、また実子の三代目博多淡海(木村進)と受継がれた。また平田汲月は俄作家として大正・昭和と活躍した。また初代・二代目と親子で続いた生田徳兵衛は生田組と称して明治から昭和に活躍。二代目の孫は女優・生田悦子として活躍。また福岡藩黒田氏の御用商人で俄師でもあった十一代目帯屋治平の孫は戦後に放送作家などで活躍し日本放送作家協会九州支部長も務めた帯谷瑛之介である。
様式は「博多弁で会話」し「駄洒落で落ちを付けて話を纏める」もので、人数や台本によって「一人仁和加」や「掛合い仁和加」「段物仁和加」等の種類があるが、20世紀末から21世紀初頭にかけては1人で演じるショートコント型の「一口仁和加」が主流となっている。半面(目かづら)を付けて演じる。この半面は博多銘菓「二◯加煎餅(にわかせんぺい)」のモチーフにもなっている。伝統的には和紙製の「ぼてかづら」も着用するが、未着用で演じることも珍しくない。
肥後俄
古くは日清戦争以降、熊本市の招魂祭を中心に盛んに行なわれてきた。戦前は利幸商組や運船利平の運船組、マチャン組、二本木組などが組織された。
戦後は蓑田又雄がばってん組(のちにばってん劇団)を興し、1948年(昭和23年)に地元の熊本日日新聞社専属の「熊日にわか」として本格的に活動を始め、熊本放送のラジオ放送で人気を呼んだ。1963年(昭和38年)には浅草松竹演芸場で大宮敏充のデン助劇団と合同公演、翌年の1964年(昭和39年)には地元でばってん劇団とデン助劇団が合同公演を行った。団員の中からばってん荒川、ばってん太郎、ばってん千代呂松、ばってんちび子らが気を吐いた。また、ばってん荒川は、テレビやラジオでタレントとしても活躍した。また荒川の「ばってん劇団」出身のばってん城次は荒川の遺志を受け継ぎ2015年(平成27年)現在、精力的に肥後の公演、タレント活動を行なっている。このほか、キンキラ劇団、森都劇団などが活動している。
佐賀俄
幕末から存在が確認されているが、長らく途絶えていた。はっきりとして記録が残っているのは大正末に煮豆卸業であった佐賀県佐賀市西魚町の田代熊一が一座を編成、各地を巡業した。その一座は伊東栄城、三浦キメ、高良ハル、小野善一、石崎卯一を輩出。戦時中は佐賀俄の慰問団が組織され、戦後その慰問団は石崎卯一が中心に「葉がくれ劇団」を組織され中から古賀儀一、古賀梅子が活躍。梅子は儀一と結婚。梅子はのちに筑紫美主子と名乗り、1946年に二丈町温泉センターで興行を打ち以降一座で九州地方を廻った。美主子は2013年(平成25年)に亡くなるまで精力的に活動した。
ほかにも京家桃之助、中村勇、中村福之助、座木文子らが活躍した。
鹿児島俄
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江戸吉原俄
遊廓などでも演じられ、多くは職業芸人でない素人が行った。江戸では「吉原俄」として有名だった。これらは吉原遊廓の幇間によって演じられていたとも考えられている。樋口一葉の「たけくらべ」の中でも紹介されている。
関東大震災で多くの資料が焼失し、現在でも詳しいことははっきりしていない。
脚注
出典
参考文献
- 大衆芸能史資料集成 第八巻[要ページ番号]
- 佐藤恵里「歌舞伎・俄研究」(新典社)
- 松尾正一「肥後にわかー笑いの来た道」(熊本日日新聞)
関連項目
茶番
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 19:34 UTC 版)
オープニングトークが終了した後のジングル直後に行われるコーナー。第3回放送より開始。構成作家が作成した台本に沿って洲崎と西が小芝居をしていく息抜き的なミニコーナーの扱いだったが、第18回放送よりリスナー投稿による台本で茶番が行われるようになった。2015年は休止状態であったが、2016年に復活して不定期で行われている。
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