初期の雷撃実験と航空機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/07 16:40 UTC 版)
初期の飛行機は、気象条件と風に左右された。飛行機「1台」を1日に気流の安定する15分程度を見計って飛行するので、全員が順番待ちとなり、操縦者の飛行時間も1年に40~50時間程度しか得られなかった。航空機雷撃の実験は、日本では1914年ころから開始された。 1914年(大正3年)に、飛行機から本当に航空魚雷が使えるのか、という研究が始まった。航空魚雷の技術研究のため、呉工廠で、45センチ魚雷を約 150 フィート(46m)程の起重機から落下させて実験を開始した。 1915年(大正4年)に、100馬力のモーリス・ファルマン水上機(Type 1914)にアメリカ製四四式36センチ(14in, 35.5cm)魚雷を積んで実験した。3人まで乗れる機に1人だけ搭乗し、1時間の燃料を搭載した状態で、魚雷を搭載して無事飛び上がることができた。しかし、旋回しようとすると飛行機の高度が落ちてくるので、航空魚雷の発射に向けての検討はできなかった。より大きな18インチ(45.6cm)魚雷を搭載するためには、もっと出力の高い飛行機を使う必要があることが判明した。 1918年(大正7年)、篤志家の山下汽船株式会社社長、山下亀三郎から陸軍海軍に100万円の寄付があり、このうち海軍に割り当てられた50万円で、海軍は複数の海外航空機を購入した。その一つである英国ショート社の320馬力双フロート大型水上機で初めて、18インチ魚雷搭載飛行に成功した。 1922年(大正11年)、英国空軍のセンピル教育団が導入した450馬力のブラックバーン・スイフト雷撃機を使用し、霞ヶ浦で模擬魚雷の発射試験が実施された。1921年春から翌年秋まで、海軍航空は英国空軍からセンピル大佐の一行を日本に招いて指導を得た。このとき、センピル教育団は日本が購入した航空機を持ち込んだ。その中にはブラックバーン・スイフト雷撃爆撃機、ソッピース・クックー単座雷撃機など、各種の艦上雷撃機があった。日本の海軍航空は水上機しか使っていなかったので、驚きをもって迎えた。これらの機体を使って模擬18インチ短魚雷で講習を行い、実地に霞ヶ浦で浅深度発射を行って雷撃技術を訓練指導した。当時の和田秀穂中佐をはじめ海軍航空の関係者は、その後に横須賀で実施された雷撃テストにさらに大きな印象を受けた。 1922年(大正11年)の秋、英国人ハーバート・スミス技師の設計によって、車輪式の陸上機で18インチ魚雷を搭載できる、三菱製の海軍一〇式艦上雷撃機が完成した。この機で横須賀航空隊は、全長のやや長い通称「長魚雷」による雷撃テストを集中して行い、日本での雷撃射法を確立した。この時期の主務研究員だった赤柴千仗大尉(当時)は横須賀航空隊に出張して、四四式二号45センチ魚雷(18インチの長魚雷)を 50 数本発射テストした。その結果、従来型の魚雷(短魚雷)よりも水面への入射も水中走行も著しく良好なので、長魚雷を航空用魚雷として採用することに決定した。低空雷撃射法の基礎を固めたのもこのころだった。このころから、模型魚雷や、演習用の模擬頭部付き実魚雷で発射訓練を実施した。 1923年(大正12年)ころ、成瀬正二大尉(当時)は英国の工廠を見学して報告し、日本の航空魚雷開発を最初から担当した。
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