インディアンとの初期の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/12 04:04 UTC 版)
「プリマス植民地」の記事における「インディアンとの初期の関係」の解説
マサソイトとその一党が去ると、スクァントはプリマスに残って、ニューイングランドで生き残る方法をピルグリムに教えた。例えば死んだ魚を使って大地に肥料を与えることである。メイフラワー号が去って間もなく、カーバー知事が突然亡くなった。ウィリアム・ブラッドフォードがその後継者に選ばれ、植民地の成長期の多くの期間を引っ張っていくことになった。 マサソイトが約束したように、多くのインディアンが1621年の中頃にプリマスを訪れ、和平を誓った。7月2日、ピルグリムの1隊がエドワード・ウィンスローの引率で、酋長との交渉を続けるために出発した。この中には通訳としてスクァントも含まれていた。数日間の移動後に、一行はマサソイトの本拠、ナラガンセット湾に近いソワムズ集落に着いた。食事と贈り物の交換後に、マサソイトはイギリス人と排他的交易盟約を結ぶことに同意し、この地域にしばしば現れて交易を行っていたフランス人を排除することになった。スクァントは一行を離れてその付近を歩き回り、幾つかの部族と交易関係を築いていた。 7月遅く、ジョン・ビリングトンという名の少年が入植地の周りの森の中でしばらく行方不明になった。少年はノーセット族に発見されたと記録されている。ノーセット族はピルグリムが前年の最初の探検中にコーンの種を盗んだケープコッドのインディアンと同族だった。イギリス人はビリングトンをプリマスに戻して貰うために代表団を組織した。ピルグリムは少年を返還して貰う替わりに盗んだコーンをノーセット族に弁償することに同意した。この交渉はその地域のインディアンとの和平確保に発展した。 ジョン・ビリングトンの解放についてノーセット族と交渉している間に、ピルグリムはマサソイトが経験しつつある問題を知った。マサソイト、スクァントおよび数人のワンパノアグ族がコービタント酋長らのいるナラガンセット族に捕まっていた。マイルス・スタンディッシュを指導者とする10名の部隊が組織され、コービタントを探して処刑するために出発した。 コービタントは酋長であって、指導者のような部族を「率いる」存在ではない。しかし白人はこれを理解できないから、彼を捉え処刑したがったのである。 コービタントを探している間に、スクァントが逃げ、マサソイトも部族に戻ったことが分かった。スタンディッシュの部隊によって、数人のインディアンが傷つき、プリマスで治療を受けた。スタンディッシュの部隊はコービタントを捕まえることには失敗したが、武力を示したことでインディアンからはピルグリムに対して一目置かれ、その結果、その地域で勢力を持つ部族のうち、9人の酋長が、この中にはマサソイトやコービタントも含まれていたが、ジェームズ国王に対する忠誠を誓う条約に9月に署名した。 インディアンは文字を持っていないから、「署名」というのは名前の代わりに「X印」を書き込むというものである。 1622年5月、スパロー号という船が、この地域で新しい入植地を探す目的でマーチャント・アドベンチャラーズに派遣された7人の男達を運んできた。その後2隻の船が続き、60名のすべて男の入植者を運んできた。彼らは7月と8月をプリマスで過ごした後、北へ向かって今日のウェイマスに入植しウェサガセットと名付けた。ウェサガセットの入植地は短命に終わったが、土地のインディアンとイギリス人との間の政治的な関係を劇的に変えるような出来事を起こすことになった。ウェサガセットに対するインディアンの武力による反発があるという報告を受けて、マイルス・スタンディッシュはウェサガセットを守るための民兵隊を組織した。 しかし、スタンディッシュは何の攻撃も無かったことが分かったので、先制攻撃を掛けることにした。インディアンから攻撃が無かったのに、白人は進んで攻撃を仕掛けたのである。歴史家のナサニエル・フィルブリックによって「スタンディッシュの襲撃」と呼ばれているこの事件で、スタンディッシュはマサチューセッツ族の「傑出した2人の軍事指導者」と思い込んでいるインディアン二人を、食事を共にし交渉を行うという名目でウェサガセットの宿舎におびき出した。 インディアンの社会は合議制であり、「軍事指導者」などというものは存在しない。スタンディッシュは指導者と想定される者の殺害を企んで、これを実行したのである。スタンディッシュの部隊は何の疑いも抱いていなかった2人のインディアンを刺し殺した。オブタキーストという土地の酋長がスタンディッシュの部隊に追跡されたが、ウェサガセットで捕まえた3人のイギリス人捕虜と共に逃げてしまい、捕虜は後に処刑された。ウェサガセットは短期間で放棄され、残った者はプリマスの町に合流した。 スタンディッシュの騙し討ちによるインディアン虐殺の話は、インディアンの間に直ぐに広まった。多くのインディアンは、さらなる虐殺を恐れて、集落を捨てて逃げ出した。フィルブリックは次の様に記している「スタンディッシュの襲撃は取り返しがつかないほどにその地域の人間関係を傷つけた...それは新たな平衡状態が生まれる前のことだった。」エドワード・ウィンスローはその1624年の回顧録「ニューイングランドからの良い知らせ」(Good News from New England)の中で次の様に記している「彼ら(インディアン)はその家を諦め、取り乱した人のようにあちこち走り回り、沼地や荒れ地に住んで、種々の病気を流行らせ、そして多くが死んだ」。 土地の部族から供給される毛皮という交易手段を失い、ピルグリムはマーチャント・アドベンチャラーズに対する負債を払うための収入源を失った。「スタンディッシュの虐殺」は、地元の縄張りを強化するというよりもむしろ、植民地に悲惨な結果をもたらした。ウィリアム・ブラッドフォードはマーチャント・アドベンチャラーズに送った手紙に次の様に記している「我々は交易に大きなダメージを受けた。我々が毛皮を得ていたインディアンがその住まいから逃げ出したからだ。」スタンディッシュの攻撃による唯一のプラス側の効果といえば、ピルグリムが密接に同盟を結んでいる、マサソイトらワンパノアグ族の力を増大させたことだった。
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