インディアンとの交易に関する政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:49 UTC 版)
「ウィリアム・バーネット (政治家)」の記事における「インディアンとの交易に関する政策」の解説
ニューヨークにおけるバーネットの重要な任務の1つは、フロンティアにおけるニューヨーク植民地の地位を強化しようとすることであり、現在のアップステート・ニューヨークの大半を支配していたイロコイ族との関係を強化することだった。イロコイ族は1701年にヌーベルフランスと和平を結んでいたので、オールバニのニューヨーク商人とモントリオールのフランス人商人との間で活発な交易が始まっていた。イギリス製品がフランス人交易業者に売られ、フランス人交易業者はそれらの商品を北アメリカ中央部のインディアン部族の毛皮と交換していた。イギリスの植民地管理者はこの交易のやり方を変えたいと考え、バーネットにモントリオールを経由するのではなく直接イロコイ族の領土を通じて交易を行い、オールバニ=モントリオール交易を終わらせるよう指示していた。 バーネットはニューヨークに到着してから間もなく、オールバニ=モントリオール交易を禁じる法案を議会に通させた。この行動で、ユグノーのスティーブン・デランシーなどオールバニの商人を含むヌーベルフランスと直接取引していた商人の利益を代表する側から反対の声が挙がった。アドルフ・フィリップスとピーター・スカイラーという声高な商人2人が総督評議員となっていたのが、1721年にバーネットから排除された。この法には容易な抜け穴があった。商人は、モントリオールとの間で商品を運んで行き来するモホーク族を通して交易を行う道筋を作った。1722年にはさらに交易禁止法を厳格に強制する法案が通った。これらの政策で、ニューヨークだけでなく、ロンドンでも抗議の声が上がった。イギリスの商人はヨーロッパへの貿易量そのものに否定的な影響しか与えないと論じた。 1723年、バーネットは、フランスがオンタリオ湖の西端でナイアガラ砦の建設を始めたと知らされた。この行動は、イギリスが毛皮交易を直接行い支配しようという動きに対するはっきりとした脅威だった。バーネットはその後オスウェゴ川河口にオスウェゴ砦の建設を命じた。この判断は、毛皮交易に関する独占を失うことになるオールバニの交易業者ばかりでなく、フランスや(イギリスにオンタリオ湖への直接行き来を許すことになるため)やイロコイ族を動揺させた。イロコイ族はオナイダ湖の方に砦を築くことを望んだ。バーネットはオナイダ地域に民兵隊を配備することでイロコイ族を宥めようとしたが、イロコイ族はこの侵入と考えるものにも不満だった。 バーネットの交易政策を実行しようという試みは結局失敗に終わった。1725年、商人の利益を代表する派閥、中でもスティーブン・デランシーが特別選挙で議員になることに成功したときに、バーネットがユグノーであるデランシーの市民権を問題にする判断(すなわち議員になる権利を問うことになる)を行うと、議会の多くの中道派議員を怒らせることになった。その後の数年間、議会はバーネットの支配に対して敵対的になっていった。交易禁止は1726年に撤廃され、オールバニ=モントリオール交易ルートよりも西側のルートが好まれるように課税する仕組みに置き換えられた。1727年にバーネットがニューヨークを去るときになって、この政策が有効ではなく、ある場合には負の効果を与えていたことが明らかになった。バーネットが総督であった間に成立したインディアン交易に関するあらゆる法は1729年に撤廃された。唯一長期で残った効果はオスウェゴにイギリス軍が駐屯するようになったことであり、またオールバニの交易独占を破ったことだった。バーネットがニューヨークに到着したときよりも、商人と土地所有者の間の党派的分裂を強くして、ニューヨークを去ることになった。
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