インディアンとの和平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:45 UTC 版)
「スペイン領テキサス」の記事における「インディアンとの和平」の解説
1770年代の大半はコマンチェ族がニューメキシコで襲撃を行っていた。1779年にニューメキシコ知事フアン・バウティスタ・デ・アンサによって広範な襲撃があって、コマンチェ族はニューメキシコを追い出され、防御力の弱いテキサスにその活動の鉾先を向けた。同じ頃、カランカワ族から受け取った銃をため込んでいたアパッチ族がテキサスの開拓地に対する襲撃を再開し、和平条約を破った。コマンチェ族は直ぐにアパッチ族に宣戦布告した。 ガルベスは1785年にヌエバ・エスパーニャの副王になり、内陸植民地の支配権を取り戻した。ガルベスは、交易によってのみ得られるアルコールをインディアンに飲ませるよう奨励させ、さらに交易で手に入れる火器は粗末に作らせて、インディアンがそれを使うことに尻込みし容易に打ち破ることのできるようにせよと命令した。スペインはインディアン部族に贈り物を提供する金を持たなかったので、その戦術が実行されることはなかった。その替わりにスペインは1785年遅くにコマンチェ族と条約交渉を行った。この条約でコマンチェ族に対して毎年の贈り物を約束し、その結果としての和平はその後30年間続いた。1786年遅くまでに、テキサスの北部と西部の安全は確保され、ペドロ・ビアルと1個中隊で「サンアントニオからサンタフェまで、700マイル (1126 km) の道を安全に開発した。」 コマンチェ族は新しい友人の敵と進んで戦い、間もなくカランカワ族を攻撃した。その後の数年間でコマンチェ族はその地域にいたカランカワ族の多くの者を殺し、他の者はメキシコに追い出した。1804年までにカランカワ族が本拠にしていた防波島にはほとんどインディアンが住まなくなった。1790年1月、コマンチェ族はサンアントニオの西、ソレダード・クリークでメスカレロ族とリパン・アパッチ族に対する大会戦でスペインを助けた。1,000人以上のコマンチェ族戦士が1791年と1792年のアパッチ族に対する襲撃に参加し、アパッチ族はメキシコの山間部に散らばらざるを得なかった。1796年、スペイン当局はアパッチ族とコマンチェ族が平和に共存できるように調停を始め、その後の2年間で部族間の闘争は下火になった。 1791年と1792年、フライ・ホセ・フランシスコ・ガルサがカランカワ族やその他のインディアン部族と友好関係を作った。その友好関係により、ガルサはそれまで訪れるのも危険だった海岸地域の大半を探検できた。インディアン達はサンアントニオからグアダルーペ川に突き当たる所に伝道所を造るよう要請し、1793年2月にサンアントニオ湾奥のミッション湖近くにヌエストラ・セニョーラ・デル・レフジオ伝道所が開設された。当初230人以上のインディアン達がその伝道所に住んだが、2年間のうちに洪水の恐れが少ない場所に移動させられ、そこはルフジオと呼ばれることになった。18世紀が終わるまでに、テキサス内の狩猟採集型部族で洗礼を受けていない者は極少数になった。1793年、サンアントニオ・デ・バレロ伝道所が宗教色を無くされ、翌年にはサンアントニオに残っていた4つの伝道所の一部が宗教色を無くされた。
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