ワシタ川の虐殺
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「ジョージ・アームストロング・カスター」の記事における「ワシタ川の虐殺」の解説
1868年11月27日、カスター中佐は以後の合衆国の対インディアン政策を決定づける軍事行動を行っている。 この日、カスター一隊は、現在のオクラホマ州の西部を流れる雪深いワシタ川べりにカイオワ族やアパッチ族とともに避寒のため51のティーピーからなる野営を張っていたシャイアン族和平派のブラック・ケトル酋長のバンドを急襲し、子供も見境なく銃撃を加え、全滅させた。この民族虐殺は「ウォシタ川の戦い」と白人からは呼ばれているが、実際には戦いというより、一方的な虐殺だった。ブラック・ケトルは白人との和平会談の中心人物として和平を説き続けた人物だったし、彼らのティーピーには、和平を表す白旗が掲げられていた。 ブラック・ケトルはシェリダン将軍が彼らとの和平交渉を経ずに彼らを襲撃するとは信じようとしなかった。ブラック・ケトルは妻とともに自分のティーピーの傍で死に、カスターの斥候を務めたオーセージ族によって、その頭の皮が剥がれた。 この戦いで、カスターは彼らの土地を補給拠点とする合衆国軍最初の作戦目標を達成した。シャイアン族は「11人の戦士と19人の女子供が殺された」と証言しているが、カスターは「103人殺した」と報告した。カスター側の死者は将校が2人と兵卒19人で、これはブラック・ケトルを救出に来たアラパホー族やシャイアン族の別バンド、カイオワ族との戦いでによるものである。生き残った50人以上のシャイアン族が奴隷として連行された。 この「勝利」はインディアン戦争史上初めて米国陸軍が得た勝利とされ、シャイアン族の南部領土は合衆国が占領する事となったが、実情は先述したように非戦闘員の民間人や乳児も含む無差別虐殺だった。カスターはこの子供の死者数をワシントン政府に全く報告しなかった。ワシントン政府もこの虐殺について何らの調査もしなかったのである。そしてカスターはこの虐殺について、上司であるシェリダンとウィリアム・シャーマンの両将軍から褒められ、再びカスターの名は「英雄」として輝かしいものとなったのである。 そしてこの「ワシタ川の虐殺」以後、白人側はインディアンとの和平会談交渉を打ち切り、保留地に入ろうとしないインディアンたちに対して、容赦のない軍事絶滅作戦を行使する方針をとることとなったのである。 1869年の春、カスター中佐はシャイアン族との和平協定締結のため、まじない師でもあるホ・ホナー・オフタネ(岩の張出し)酋長と会見した。彼らに降伏を迫るカスターに対し、酋長はティピーの中で聖なる矢の上に座らせて、和平のパイプを回し飲みする儀式を行った。カスターは和平のパイプを吸うことを拒否したため、酋長はパイプから灰を気付かれないようそっとカスターのブーツの上に落として呪いをかけ、「もしお前がシャイアン族との和平協定を破って裏切れば、大精霊の名にかけて、ただちにその身に死が訪れるからな」と警告した。7年後、カスターはシャイアン族を含むインディアンたちを襲って敗れ、戦死した。このとき、戦死したカスターの耳には、シャイアン族の女性によって「警告をあの世でよく聞けるように」と千枚通しで穴が開けられたとされる。
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ワシタ川の虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/01/25 14:03 UTC 版)
1868年11月26日の夜明け頃、現在のオクラホマ州シャイアンの2マイル西にあるワシタ川の川岸で、他のシャイアン族から若干離れた場所に野営していたブラックケトル達は、ジョージ・アームストロング・カスター中佐指揮下の第7騎兵隊によって不意打ちの襲撃を受ける(ウォシタ川の戦い)。 この時、彼のティピーには白旗が掲げられていた。彼は必死に「友達だ! 友達だ!」と叫んだが、それは無視され、最新鋭の軽機関銃で蜂の巣となり、死亡した。野営地の虐殺された人々のほぼ全員が、無抵抗な女・子どもであった。
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