オーセージ族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/10 06:49 UTC 版)
「ジャスパー郡 (ミズーリ州)」の記事における「オーセージ族」の解説
ジャスパー郡となった地域にヨーロッパ人が接触する以前、オーセージ族インディアンが地域を支配していた。オーセージ族は自らを「水の中間の子供達」 (Ni-U-Kon-Ska) と呼んでいた。これは、その領土がミズーリ川と北のオーセージ川、東のミシシッピ川、南のアーカンザス川の間にあったからだと考えられる。西にはグレートプレーンズがあり、そこでバッファローの狩りを行った。 ヨーロッパ人とオーセージ族が接触した初期の記録は、1673年にフランス人イエズス会宣教師で探検家だったジャック・マルケットが作成した地図に読み取られる。マルケットは遭遇した部族の名を耳で聞いた音をフランス語で Ouchage,(ウーシェイジ)と綴った。マルケット探検隊から数年後、フランス人探検家がリトルオーセージの集落を発見し、そこを Ouazhigi と呼んだ。部族名のフランス語音訳は最終的に Osage となり、これをヨーロッパ系アメリカ人も使った。 1682年、ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがカヌーで、ミシシッピ川をメキシコ湾まで下り、その流域全体をフランス王ルイ14世に因んで、「ラ・ルイジアン」と名付けた。1699年、ルイジアナはヌーベルフランスの管理区域と指定され、ヨーロッパ列強(フランス、イギリス、スペイン)の間では、ジャスパー郡となった地域はフランス領だった。フランスはその後、アーカンザス川を境として、上流地区と下流地区に分割した。 1763年にフランスとスペインが七年戦争に負けた結果として、フランスはルイジアナをスペインに、ヌーベルフランスの大半をイギリスに割譲した。イギリスはスペインからフロリダも取り上げた。スペイン領ニューマドリード地区には今日のジャスパー郡も入っており、アッパールイジアナでは5つの地区の最南部にあった。フランスは1800年に秘密のサンイルデフォンソ条約でルイジアナを取り戻したが、ナポレオン・ボナパルトは1803年にそこをアメリカ合衆国に売却した。 1808年、オーセージ族はアメリカ合衆国と条約を結ぶようになり、オーセージ条約で最初の土地(現ミズーリ州内)を譲渡した。オーセージ族はこの年オーセージ川沿いの故郷から、ミズーリ州南西部のジャスパー郡の地に移動した。1825年、さらにミズーリ州、アーカンソー州、オクラホマ州に跨る昔からの土地を手放した。まずカンザス州南東部のチェロキー・ストリップ、現在のインディペンデンス市の土地に移動し、1872年にはインディアン準州に移った。
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