1820年代から1840年代:インディアン準州
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「カンザス州の歴史」の記事における「1820年代から1840年代:インディアン準州」の解説
1820年代から、この地域(当時はアメリカ大砂漠として知られた)は、アメリカ合衆国政府によってインディアン準州として「恒久的に」取って置かれ、白人による開拓は行えなかった。 インディアン準州を十分に活用するために、合衆国政府はカンザス東部に既に居た先住民族、主にカンザ族とオーセージ族を再移住させ、その土地は東部から移住してくる種族に渡した。1825年6月3日付けの条約で、カンザ族は2千万エーカー (81,000 km2)の土地をアメリカ合衆国に譲渡し、その後カンザス北東部の特別の居留地に制限された。同月、オーセージ族はカンザス南東部の居留地に制限された。 ミズーリ州のシャワノー族(あるいはショーニー族)は、この地域に移住した最初の先住民族だった。1825年11月7日のセントルイスで締結された条約で、アメリカ合衆国は次のように定めた。 ミズーリ州内のシャワノー族インディアンは、自分達のために、またオハイオ州に住む同族のために、今後ミズーリ州の西部にあるミシシッピ川の西50マイル (80 km)四方に等しい土地で、最近オーセージ族から購入した土地内に移住する。 レナペ族は1829年9月24日の条約でカンザスに移住した。この条約では、「カンザス川とミズーリ川の分岐点にある土地、カンザス川上流はカンザス(インディアン準州)境界まで、ミズーリ川上流はキャンプ・レブンワースまで、またそこから境界を西方に引き、カンザス境界線の北に幅10マイル (16 km)の領域を出口として残す」と表現している。 この時から1830年のインディアン移住法がその実効を表していった。1831年8月30日付けの条約でオタワ族はアメリカ合衆国に土地を譲渡し、カンザス川とその支流にある小さな居留地に移動した。この条約は1832年4月6日に批准された。同年10月24日、アメリカ合衆国政府はキカプー族をカンザスの居留地に移住させた。10月29日、ピアンクショー族とウィー族は、北はシャワノー族、東はミズーリ州西の境界、西はカスカスキア族とピオリア族で区切られる250区画の土地を占有することに同意した。1833年9月21日に合衆国との間に造られた条約で、オトー族はリトルネマハ川南の土地を移譲した。 1836年9月17日までに、ソーク族とフォックス族の連邦は、アメリカ合衆国との条約により、キカプー族の北に移住した。1837年2月11日の条約で、合衆国はミズーリ川南西のオーセージ川地域にポタワトミ族を移動させることに同意した。南西部に選ばれた領域は現在マイアミ郡となっている。 1842年、合衆国とワイアンドット族との間の条約によって、ワイアンドット族はカンザス川とミズーリ川の合流点に移住した(1843年までレナペ族と分け合っていた)。1842年の条約の通常とは異なる条項で35人のワイアンドット族は、ミズーリ川の西にある特定の場所を定めない土地の区画の所有権、フロートを与えられた。1847年、ポタワトミ族は再度移住させられ、1846年にカンザ族から合衆国が譲り受けた土地の東部 576,000エーカー (2,330 km2)を含む地域に移った。この土地は現在のポタワトミ、ワボーンシー、ジャクソンおよびショーニー各郡となっている。
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