1820年州知事選挙
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「ジョセフ・デシェイ」の記事における「1820年州知事選挙」の解説
1820年ケンタッキー州知事選挙では、デシェイが4人の候補の1人となった。アメリカ合衆国史の中でも最初の財政危機である1819年恐慌の後であり、選挙運動の論点は債務者の救済だった。現職のガブリエル・スローター知事は、州内の大型債務者階級に有利となる手段、特にルイビル市とレキシントン市にある第二合衆国銀行の支店に対して懲罰的課税を行うことについてロビー活動を行った。この頃は第二政党制がまだ発展していなかったが、債務者救済問題に関しては2つの対立する党派があった。第1の党派は主に信用で大規模な土地を購入した土地投機家で構成され、財政危機のために負債を払えなくなっていた者達であり、救済党あるいは救済派と呼ばれ、債務者に有利な手段の法制化を求めていた。これに反対したのが反救済党あるいは反救済派であり、主に州内の特権階級で構成され、その多くは土地投機家の債権者であり、政府の干渉無しに債務が履行されることを求めていた。政府の干渉が無いことが実質的に債務者を助けるのであり、救済することは経済不況を長引かせるだけだと主張した。 デシェイは明らかに救済党の側に付いたが、その派閥の指導者ジョン・アデアは米英戦争の退役兵であり、ニューオーリンズの戦いで、アンドリュー・ジャクソンが臆病だと告発した部下のケンタッキー兵を弁護したことで、その人気が高まっていた。アデアは20,493票を得て接戦をものにした。次点はウィリアム・ローガンの19,947票、デシェイは12,418票、アンソニー・バトラーは9,567票だった。救済派が州議会の両院も支配した。多くの債務者救済法がアデアの任期中に成立したが、その任期が終わり近くなった頃に、ケンタッキー州控訴裁判所が、人気があり広範な債務者救済法の1つを違憲だと裁定し、次の州知事選挙でも再度債務者救済問題が中心命題となった。
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