1820年代の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 20:23 UTC 版)
「1832年改革法」の記事における「1820年代の改革」の解説
庶民院が選挙制度の直接的な変更を常に大差で否決したため、改革を目指す議員はより控え目な変更を提案するしかなかった。たとえば、ホイッグ党のジョン・ラッセル卿は1820年に腐敗で悪名高いグラムパウンド選挙区(英語版)の廃止議案を提出し、代わりにリーズに2議席を与えることを提案した。貴族院のトーリー党員はグラムパウンド選挙区の廃止に同意したが、工業都市に議席を移すという前例にしたくなかったため、代わりにヨークシャー(リーズが所在するカウンティ)に2議席を与えるよう議案を改正した。その後、改正案は両院で可決されて成立した。ジョン・ラッセル卿は続いて1828年に腐敗選挙区のペンリン(英語版)とイースト・レットフォード(英語版)を廃止してマンチェスターとバーミンガムに議席を移す議案を提出したが否決され、1830年には選挙汚職が露見した3選挙区を廃止してリーズ、マンチェスター、バーミンガム3選挙区を設立する議案を提出するもやはり否決されている。 結局、1820年代の選挙改革はグラムパウンド選挙区の廃止のみ達成したが、1829年に思わぬ進展をみせた。1829年、初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー率いる内閣(英語版)がアイルランドの社会不安への対処としてカトリック解放法案を提出した。この法案はカトリック信者を政界から締め出す(庶民院議員への就任禁止など)規定を廃止するものであり、それを国教会への脅威とみたウルトラ・トーリー(英語版)(超保守派)はここにきて、国教忌避者(英語版)の多いイングランド北部の都市であるマンチェスターやリーズの選挙区創設など議会改革を支持するようになった。
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