1820年代における発展
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「カトリック解放」の記事における「1820年代における発展」の解説
1823年、ダニエル・オコンネルはカトリック協会を設立することによって、カトリック教徒解放に向けて運動を開始した。1828年、彼はイギリスの庶民院の議席を得ることは不可能だったにもかかわらず、アイルランドのクレア州の選挙に出馬し、見事当選してみせた。彼はこの偉業を1829年にも繰り返した。 オコンネルの巧妙な手段も重要だったが、決定的な転機は、イギリスの世論がカトリック教徒解放に賛成する方向に傾いたことであった。政治家たちは世論がいかに大切かということを理解していたのである。彼らは、貴族院のホイッグ党やグレンヴィル卿(1759年 - 1834年)の弟子たちが法案に対して強力な援助をしたことに強い影響を受けた。20年間にわたって新聞や選挙で述べられていくうちに、世論の力はどんどん強くなっていった。そうしてついに、最初は庶民院で、続いて貴族院において宗教的な偏見と王権との不和に打ち勝ったのである。1807年よりも後に当選した議員たちは、1人の例外を除いて、全員カトリック教徒解放に対する支持を表明した。しかし、世論が解放の方向へ向かっていたにもかかわらず、貴族院での投票は一貫して振るわない結果となっていた。これは一つに、王自身が反対していたことによる。その中で、1828年から1829年の間に、突然貴族院での意見の均衡は世論の方向へ変化した。彼らが特に恐れたのはイングランド国内における宗教戦争の勃発であった。1828年、サクラメント審査法によって、特定の公務員は国教会の一員でなければならないとする障壁が取り除かれることとなった。 最終的にウェリントン公爵とロバート・ピール卿は立場を変えることになり、1829年ローマカトリック教徒救済法を可決した。この法律はグレートブリテンおよびアイルランド連合王国において、残存していた多くのカトリック教徒に対する実質的な制約を取り除くものであった。しかしながら同時に、選挙投票の資格を得るのに必要な最低限の資産が増加し、賃貸価値として年間40シリング(2ポンド)から10ポンドへと値上がりした。当時は投票する資格を持つ人々の数は減少することとなったが、その後1832年の選挙制度改革法に続いて、必要最低限となる財産は再び下げられていった。カトリック教徒救済法における大多数の受益者は中流階級のカトリック教徒であり、彼らは高級公務員や司法といった職業に就くことができるようになった。そのため、1829年はグレートブリテン王国とアイルランドにおけるカトリック教徒解放の最も重要な時期として、一般に認知されている。 しかし、10分の1税をアイルランド国教会に支払う義務は残っており、1830年代の10分の1税戦争を引き起こすこととなった。また多くの細かな制約も残っていたため、一連のさらなる改革が後に導入された。
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