1820年の反乱と憲法復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 17:30 UTC 版)
「ラファエル・デル・リエゴ」の記事における「1820年の反乱と憲法復活」の解説
1819年国王が南アメリカの独立運動に対して10個連隊を編成すると、デル・リエゴはアストゥリア連隊の指揮をとることになった。しかしカディスに到着後、他の士官たちとともに、デル・リエゴは1820年1月1日反乱をおこし、「1812年憲法」の復活を要求した。のちに1820年から1823年の「自由主義の三年間」として知られる時代のはじまりである。デル・リエゴの軍隊は、反王政の蜂起が始まるものと期待しながらアンダルシアの各都市に行軍したが、地方の人々は関心を示さなかった。しかしガリシアでは反乱が起き、スペイン各地へと広まった。1820年3月7日、マドリードの王宮はバリェステロス将軍の指揮のもと包囲され、3月10日に国王は憲法の復活に同意した。 新たに樹立された「進歩的」政府はリエゴを元帥に昇進させ、ガリシアの司令官にした。1821年1月8日、リエゴはアラゴンの知事となり、サラゴサに赴任した。同年6月18日リエゴは従姉妹であるマリア・テレサ・デル・リエゴ・イ・ブスティリョスと結婚した。1821年9月4日共和主義者の暴動が失敗し、リエゴは共和主義者として誤解に基づいた非難を受け投獄された。しかしリエゴへの支持は高まり、釈放を要求する抗議行動がマドリードで行われた。1822年3月、リエゴは国会議員に選出され、釈放された。 1822年12月、ヴェローナ会議(英語版)で神聖同盟諸国は、スペインの共和主義者たちはヨーロッパの安定への脅威になると判断し、スペインに絶対王政を再びもたらすために軍事介入した。その主力はフランス軍で、1823年4月7日に国境を越えてスペインに侵攻した。リエゴは第三軍を率いたが、フランス軍と地方の王党派の両方から抵抗された。9月15日、リエゴは裏切られ、ハエン県のアルキリョスで捕虜とされた。デル・リエゴはマドリードに護送された。特赦令が交付されたが、王立裁判所は、王の権力を剥奪することに議会で賛成したかどでリエゴに反乱罪を宣告した。 1823年11月7日、ラファエル・デル・リエゴはマドリードのセバダ広場で絞首刑になった。
※この「1820年の反乱と憲法復活」の解説は、「ラファエル・デル・リエゴ」の解説の一部です。
「1820年の反乱と憲法復活」を含む「ラファエル・デル・リエゴ」の記事については、「ラファエル・デル・リエゴ」の概要を参照ください。
- 1820年の反乱と憲法復活のページへのリンク