財政危機
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国庫は完全に払底し、兵糧にも事欠く有様だった。やむにやまれず、カピトリウム周辺にあった、シビュラの書管理十五人委員会(英語版)、神祇官 (ローマ)(英語版)、アウグル、神官 (ローマ)(英語版)らの資産を売却し、当面の赤字を回避することができた。 オロシウス『異教徒に対する歴史』5.18 増大した軍事費は国庫を圧迫していた。P. A. ブラントの仮説では、ローマの保有していた軍団数は、同盟市戦争前の6に対し、同盟市戦争中は最大32まで増大している。更に紀元前88年にはスッラがミトリダテス戦争に向かい、他の国外の戦線も維持する必要があった。マイケル・クロフォード (歴史家)(英語版)は、ローマの貨幣鋳造三人委員(英語版)が使用した金型数を推測しているが、紀元前90年だけ突出して多く、増大した軍団に対応するためと考えられる。ミトリダテス6世によって豊かなアシアからの税収も途絶え、アエラリウム(英語版)(国庫)はすぐに払底し、奴隷解放時に取り立てていた5%の税をガリア人との戦費の名目で積み立てていた金にも手をつけ、argento publico(公有銀より)と刻まれたデナリウス銀貨が発行された。 こうした混乱は同盟市戦争後も続いたと考えられ、税収の激減したマリウスとルキウス・キンナ、グナエウス・カルボと小マリウスは、スッラを迎え撃つための戦費をイタリック人から集めており、更に各神殿の宝物庫からも資金を調達し、アスクルムの戦い (紀元前89年)の戦利品に目を付け、それを没収するため凱旋将軍ストラボの息子、グナエウス・ポンペイウスを訴えている。内戦に勝利したスッラは大量の戦利品と共に帰国したが、彼は資産家として亡くなっており、大して国に納めなかったと思われる。
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財政危機
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1774年5月10日:ルイ16世即位。 破産政策を進めたテレーを解任し、財務総監にテュルゴーを任命 1775年:凶作で飢饉。テュルゴーの自由主義的改革が物価高騰を招き、食糧暴動に発展(小麦粉戦争) 1776年5月12日 : 財務総監テュルゴー罷免 7月4日 : アメリカ独立宣言。アメリカ独立戦争始まる(〜1783年) 1777年ラファイエット侯爵が渡米して単独参戦。ワシントン大陸軍司令官の副官 6月29日: ネッケルが財務長官に就任 1778年2月6日:イギリスに対抗してアメリカ植民地支援を宣言(仏米同盟条約) 7月5日:バイエルン継承戦争始まる(〜1779年) 1779年ラファイエットが帰国して参戦運動 8月10日:ルイ16世が農奴廃止令を発布 1780年:フランスがアメリカ独立戦争へ出兵 1781年2月19日:ネッケルが『会計報告書(コント・ランデュ)』を発表 5月19日:ネッケルが宰相の地位を狙うが貴族の反発にあって失脚。辞職 ヨークタウンの戦い(9月28日〜10月19日) コンドルセ侯爵が『黒人奴隷についての考察』を出版(フランスで奴隷貿易反対論) 1783年〜1789年:浅間山、ラキ火山、ヴェスヴィオ山、フエゴ山の大噴火(世界の気温低下・厳冬) 1783年9月3日 : パリ条約が締結され、アメリカ独立戦争終結 11月10日:財務総監にカロンヌを任命 1784年カロンヌ、パリに入市関税(オクトロワ)を導入(パリで新しい城壁の建設開始) ネッケルが『フランスの財政について』を出版(カロンヌを激しく批判) 1785年4月14日:カロンヌ、フランス東インド会社を再建(〜1794年) 首飾り事件。王妃マリー・アントワネットに云われなき悪評 1786年8月20日 : カロンヌ、財政再建改革策を提出。臨時土地税を主張 9月26日:英仏通商条約締結(イーデン・レーヌヴァル条約) 1787年2月22日 : ヴェルサイユで第一回名士会を召集 4月8日:名士会のネッケル派、カロンヌの提案を否決。カロンヌ罷免。後任にブリエンヌ 5月25日:名士会解散 8月14日:高等法院が印紙税を拒否して三部会召集を要求。トロワへ追放される(9月4日にパリに帰還) 11月19日:国王臨席会議で公債増発にオルレアン公爵が公然と反対(21日にパリ追放) 11月29日、ルイ16世が寛容令を発し、ユグノー(プロテスタント)に戸籍など市民権を与える
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財政危機
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第4代藩主の容貞の時代である寛延2年(1749年)に、不作と厳しい年貢増徴を原因として会津藩最大の百姓一揆が勃発する。藩は鎮定する代わりに年貢減免、首謀者の処刑と入牢などを行っている。宝暦年間における会津藩の財政事情は借金が36万4600両であり、毎年4万2200両の返済を迫られていたが財政的に返済は困難であり、藩は農政改革や年貢を定免法に改定するなどして対応するが財政は好転せず、かえって藩の借金を40万両に増やすことになった。明和4年(1767年)には財政再建を任されていた井深主水が俸禄や借金問題から藩を捨てて逃亡するという事件まで起こっており、その後も手形の発行などを繰り返すという自転車操業状態で藩の借金は総額57万両にも及び、会津の藩財政は実質的に破綻しているに近かった。
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