大村純昌とは? わかりやすく解説

大村純昌


大村純昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/21 02:30 UTC 版)

 
大村 純昌
時代 江戸時代後期
生誕 天明6年1月25日1786年2月23日
死没 天保9年10月5日1838年11月21日
改名 春之進(幼名)、純昌
戒名 崇謙院徳輝益翁日讓大居士
墓所 長崎県大村市本経寺
官位 従五位下上総介丹後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
肥前大村藩
氏族 大村氏
父母 大村純鎮:大村鎮直の養女(鉤氏の娘)
兄弟 板倉勝晙正室、純昌、酒井忠明室、章姫、隈包辰室、純文
正室亀井矩賢の娘・
側室:福田頼之の妹・仙
純鑑、純徴、純享、純顕阿部正備、道純、松平乗懿正室、相良長福正室、高木正功、小出英教、孝純、純熈、九鬼隆能室、植村家興
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大村 純昌(おおむら すみよし)は、肥前国大村藩の第10代藩主

生涯

天明6年(1786年)1月25日、第9代藩主・大村純鎮の長男として玖島城で生まれた。享和3年(1803年)1月23日、父の隠居により家督を継いだ。

財政再建を目指して藩政改革を行なうが失敗し、かえって財政窮乏を促進した上、家臣団の反発も招いた。このため、倹約や定免制の採用、他国製品の排除と自国製品の保護、生産化奨励などを行なっていくらか成功させている。

文化5年8月(1808年10月)、長崎にてフェートン号事件が勃発した際は、急を知らせる命を受け、幕府の長崎奉行松平康英と共にイギリス軍艦フェートン号に対して焼き討ちを行う為、藩兵を率いて長崎に急行する、しかしフェートン号が出航してしまい未遂に終わった。

文政11年(1828年)8月上旬と下旬の二度の嵐により、領内で家屋の倒壊や火災が発生し、溺死傷者も発生した。さらに田畑や山林が甚大な被害を受けた。

天保7年(1836年)11月23日、家督を四男の純顕に譲って隠居した。天保9年(1838年)10月5日に大村で死去した。享年53。

玖島城三の丸に、別邸として梶山御殿[1]を建てた

系譜

父母
  • 大村純鎮(父)
  • 家臣大村鎮直の養女 ー 京の鉤氏の娘、側室(母)
正室
側室
  • 仙 ー 家臣福田頼之の妹
子女
  • 大村純鑑(長男)生母は仙(側室)
  • 大村純徴(次男)生母は仙(側室)
  • 大村純享(三男)生母は仙(側室)
  • 大村純顕(四男)生母は仙(側室)
  • 阿部正備[2](五男)生母は仙(側室)
  • 大村道純(六男)生母は仙(側室)
  • 高木正功[3](七男)生母は仙(側室)
  • 小出英教[4](八男)生母は仙(側室)
  • 大村孝純(九男)生母は仙(側室)
  • 大村純熈(十男)生母は仙(側室)
  • 植村家興[5](十一男)生母は仙(側室)
  • 於咸(七女) ー 摂津国三田藩主九鬼精隆室、生母は仙(側室)
  • 松平乗懿正室、生母は仙(側室)
  • 相良長福正室、生母は仙(側室)

脚注

  1. ^ 大正時代に建て替えられ、現在は市の公共施設。
  2. ^ 陸奥国白川藩主阿部正瞭の養子。
  3. ^ 河内国丹南藩主高木正明の養子。
  4. ^ 丹波国園部藩主小出英発の婿養子
  5. ^ 兄の大村純顕養子、後に大和国高取藩主植村家貴の養子。



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