定免法
定免法(じょうめんほう)とは、江戸時代における年貢徴収法のひとつ。
概要
起源は平安時代にあって、鎌倉時代、室町時代、豊臣時代にも用いられたが、広く用いられたのは江戸時代である。
従来の年貢徴収法は、年毎に収穫量を見てその量を決める検見法(けみほう)が採用されていたが、これでは収入が安定しないので、享保の改革の一環で導入された。享保7年(1722年)のことであったとされる。
定免法では、過去5年間、10年間または20年間の収穫高の平均から年貢率を決めるもので、豊凶に関わらず数年間は一定の年貢高を納めることになった。しかし、余りにも凶作のときは「破免」(年貢の大幅減)が認められることがあった。
定免の継続期間は享保13年(1728年)3月の触書には5箇年、7箇年、10箇年、15箇年があるが、年期が終わると更に申請して年期を切り替え、従前の税額に増して定免を継続することができた(継年期(つぎねんき))。
結果
定免法の実施により幕府の収入は増え、また安定化したと言われる。
破免率は定まらなかったが、享保12年(1727年)に5分以上の損毛は破免とし、13年4月に4分以上、19年に3分以上と改めた。
地方によっては検見法が行われる所もあり、従前は検見法が行われていた所が願出によって定免法に変更し、また逆に定免法を廃して検見法に改めるなど様々であった。
定免法は豊凶を考慮しないため、農民に剰余を持たせて逸楽に耽らせ、あるいは凶作時には困窮させ、逃散(ちょうさん)させる傾向があった。
一方で、開墾や農法改良等による増分は、従来の検見法とは異なりすべてが百姓の収入となるために、増産に対する意欲を助長した[1]。
理論通りに行われれば、検見法のほうが負担がより公平になるはずであった。だが幕府側にとっては経費がかかり、農民側では苦労が多く、不正が行われ、調査が確実でないなどの問題があった。そのため、当時の学者の中にはむしろ定免法を採用するべきであると考える者が多かった。
また、郡上一揆のように、定免法から検見法へと変更する事に反対する百姓一揆が起きた例もある。
脚注
- ^ 木村茂光 『日本農業史』吉川弘文館、2010年、156頁。
関連項目
定免制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 09:43 UTC 版)
それまで税率は作柄により変動していたが、利常はこれを改め税率を固定した。これを「定免制」と称する。これにより余剰生産分は農民の手に残るようになった。しかし、定免制の計算の基本になっている数値は元々改革後に達成されるであろう高い収穫量を前提に計算されたものであった。 加賀藩で例外的に、鹿島半郡に独立した地方知行を持っていた重臣の長連頼は、31000石を領していた。改作法に倣って検地を実行しようとしたところ、十村頭(大庄屋)の園田道閑ら農民と、浦野信里ら在地家臣の反発を招いた。藩当局は、検地を拒んだ主立った者を皆殺しにした(浦野事件)。その上で、連頼の死後長家を地方知行から切り離し、鹿島半郡を直接支配下に置いた。検地の結果、石高は55360石に改められた。このように、藩の石高の見積もりは非常に厳しいものだった。 明暦2年(1656年)に作成された「百石入用図」によれば、標準収穫量100石の土地の場合、農民の食料、肥料、農具代、種籾としての保留分といった必要経費が71.8石必要とされている。100石に対する税は40石であり合計で11.8石の不足となるのだが、農業改革により標準を12.5石上回る収穫が達成されており、無事に年貢を徴収できたばかりか農民の手元に余剰分が残ったと記されている。 ここでいう「免」とは年貢の税率を示している。例えば「草高七百石免四つ」という場合は、標準収穫量が700石でその40%つまり280石が年貢であることを示している。加賀藩領内であった村々には今もこの年貢を定めた文書が残されていることがある。通称「村御印」とも「物成」とも呼ばれ、三代藩主利常が使用した黒印(御印)が押された文書である。旧家の蔵などで発見されるのは、寛文10年(1670年)に発布されたものが多い。金沢市図書館所蔵の「加越能三箇国高物成帳」では加賀国836、能登国783、越中国1792の見出村があり合計3411の村に発布されたという記録がある。ただし加賀の江沼郡は大聖寺藩、越中の婦負郡は富山藩でありこの数には含まれていない。また、寛文10年以降に追加発布された村御印の数も含まれている。
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