花隈町
花熊村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/28 02:55 UTC 版)
江戸時代から明治5年(1872年)まで花熊村。同村は八部郡のうちで、はじめ幕府領、元和元年(1615年)から大和国小泉藩領、明和6年(1769年)から再び幕府領。村高は元和3年(1617年)「摂津高改帳」288石余、享保20年(1735年)摂津国石高調291石余、天保5年(1835年)「天保郷帳」「旧高旧領」ともに294石余で、「天保郷帳」では当村含む神戸村ほか5か村立会新田2石余が見える。 元和元年(1615年)の家数61。 明和4年(1767年)の家数78(無高2)・人数321。 安政2年(1855年)の家数59(無高5)・人数247。 天明8年(1788年)の巡見使通行の際の資料(村上家文書)によると、田方160石余・畑方111石余・屋敷16石余・堤敷溝敷5石余、年貢は定免制で米171石余、水車1・紺屋1。 『神戸市史』によれば明治2年(1869年)頃、農業の他は男は素麺職・線香職・水車稼ぎ・酒造稼ぎ・柴薪刈、女は木綿織・筵折に従事。 字名に土居、射矢の上、御所坂、二の丸、二の丸堀、本丸東の根、本丸の辻、三の丸、高城など城郭に因むものが残っていた。
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