山内豊策とは? わかりやすく解説

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山内豊策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/06 15:34 UTC 版)

 
山内豊策
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 安永2年4月16日1773年6月5日
死没 文政8年8月3日1825年9月15日
改名 邦之丞(幼名)→豊策
戒名 泰嶺院曄山顕常
墓所 土佐藩主山内家墓所(高知県高知市筆山町)[1]
官位 従四位下筑後守民部大輔木工頭侍従土佐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
土佐藩
氏族 山内氏
父母 山内豊雍毛利重就三女友子
兄弟 豊策、景之助、豊敬、采子、女子
藤堂高嶷娘順
児玉氏、白禎院、山村氏、西宮氏、美濃辺氏
豊興豊資豊道、豊著、黒田長元
豊栄、厚、眉寿、孝、徳、兎見ら8男7女
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山内 豊策(やまうち とよかず)は、土佐藩10代藩主。三条実美の外祖父である。

生涯

安永2年(1773年)4月16日、第9代藩主・山内豊雍の長男として生まれる。天明5年(1785年)2月15日、将軍徳川家治御目見する。天明7年(1787年)3月18日、従四位下筑後守に叙任する。寛政元年(1789年)10月28日、父が死去したために跡を継いだ。同年12月16日、侍従に任官する。寛政9年(1797年)、郷士の高村退吾殺害事件による郷士騒動が起こり、これが原因で土佐藩の身分制度の動揺が始まったという。

藩政においては、藩校・教授館の拡大や文治の奨励、さらに塙保己一の『群書類従』編纂にも協力したという。文化5年(1808年)2月5日に家督を長男の豊興に譲って隠居し、木工頭を称した。文政8年(1825年)8月3日に死去した。享年53。

墓所は国史跡の土佐藩主山内家墓所[2]高知県高知市筆山町)[1]

系譜

子女は8男7女

脚注

  1. ^ a b 国史跡土佐藩主山内家墓所整備事業概要(令和2・3年度)”. 公益財団法人土佐山内記念財団. 2025年2月6日閲覧。
  2. ^ 山内家墓所”. 高知県立高知城歴史博物館. 2025年2月6日閲覧。



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