山内豊雍とは? わかりやすく解説

山内豊雍

読み方やまうち とよちか

土佐藩主。江戸生。通称松之丞国松筑後守土佐守、字は君粛、名は峰善・恭豊・厚雍、号は稀・南邦。冷泉為村師事国歌長じた山内家中興名主寛政元年1789)歿、40才。

山内豊雍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/06 15:32 UTC 版)

 
山内豊雍
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛延3年1月6日1750年2月12日
死没 寛政元年8月24日1789年10月12日
改名 松之丞(幼名)→国松→峯善→恭豊→豊雍
諡号 君粛、蘭稀、南邦
戒名 靖徳院融昭免寛
墓所 土佐藩主山内家墓所(高知県高知市筆山町)[1]
官位 従四位下筑後守侍従土佐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
土佐藩
氏族 山内氏
父母 山内豊敷、加恵
兄弟 豊治、豊儀、豊根、豊雍豊泰、峰、賀、正
毛利重就三女友子
豊策、景之助、豊敬、采子、女子
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山内 豊雍(やまうち とよちか)は、土佐藩9代藩主。

生涯

寛延3年(1750年)1月6日、第8代藩主・山内豊敷の四男として生まれる。宝暦6年(1756年)11月11日、豊敷の嫡子となる。宝暦13年(1763年)2月15日、将軍徳川家治御目見する。明和元年(1764年)11月13日、従四位下筑後守に叙任する。明和5年(1768年)1月2日、父豊敷の死去により、家督を継いで藩主となる。同年12月28日、侍従に任官した。

藩政においては文武を奨励するなどした。また、天明の大飢饉による被害で藩財政が困窮したため、藩士の知行借上などを行なっているが、効果はなかった。このため、天明7年(1787年)に吾川郡池川・名野川の百姓が伊予に逃散する。豊雍は谷真潮、尾池春水、久徳直利などの人材を用いて藩政改革に乗り出す。まず、土佐藩20万石の格式を10万石に切り下げて節約を行ない、問屋制を廃止して五人組の強化などを行なった。これら一連の改革を天明の改革といい、藩財政はいくらか再建されたという。

安永9年12月21日(西暦では1781年1月)、一族の旗本・山内豊産に蔵米1万俵に支給し、大名(土佐新田藩主)にする。なお、豊産への蔵米支給は、弟豊泰を養子に入れる約束で行われた。寛政元年(1789年)8月24日に死去した。享年40。跡を長男の豊策が継いだ。

墓所は国史跡の土佐藩主山内家墓所[2]高知県高知市筆山町)[1]

藩政改革を成功させたことから名君と呼ばれている。また、温厚賢明な性格だったといわれている。

系譜

  • 父:山内豊敷(1712-1768)
  • 母:加恵 - 貞光院、伊笹氏
    • 本人:山内豊雍
    • 正室:友(とも)子(1749-1780) - 観月院殿翠顔妙黛大姉、毛利重就の三女
      • 長男:山内豊策(1773-1825)
      • (以下生母不明の子女)
      • 男子:景之助
      • 三男:山内豊敬
      • 女子:采子 - 慈明院、上杉顕孝婚約者、のち黒田長舒継室
      • 女子

参考文献

脚注

  1. ^ a b 国史跡土佐藩主山内家墓所整備事業概要(令和2・3年度)”. 公益財団法人土佐山内記念財団. 2025年2月6日閲覧。
  2. ^ 山内家墓所”. 高知県立高知城歴史博物館. 2025年2月6日閲覧。



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