山内豊房とは? わかりやすく解説

山内豊房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/29 08:00 UTC 版)

 
山内豊房
山内豊房像(土佐山内家宝物資料館蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文12年2月2日1672年3月1日
死没 宝永3年6月7日1706年7月16日
改名 兵助(幼名)→豊房
別名 民部(通称
諡号 芳生
戒名 天曄院俊山泰雄
墓所 土佐藩主山内家墓所(高知県高知市筆山町)[1]
官位 従四位下民部大輔侍従土佐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉
土佐藩
氏族 山内氏
父母 父∶山内一俊
母∶鳥居忠春娘浄心院
養父∶山内豊昌
兄弟 豊房、休、豊隆、豊英、女子
山内豊昌娘多代池田綱政娘菊姫
養子∶豊隆
テンプレートを表示

山内 豊房(やまうち とよふさ)は、土佐藩5代藩主。

生涯

寛文12年(1672年)2月2日、山内氏の分家である武蔵国指扇山内家(新橋山内家)の当主・山内一俊の長男として生まれる。新橋山内家は、第2代藩主・山内忠義の弟である山内一唯から始まる家系で、一輝、一俊と続いた。同家は、武蔵国足立郡内3000石を支配する旗本であった。延宝3年(1675年)12月11日、父一俊が早世したので4歳で家督を継ぐ。武芸に優れ、歌や鞠もよくした。

本家の第4代藩主・山内豊昌に嗣子が無かったため、元禄2年(1689年)2月晦日に婿養子となる。それにともない、足立郡の領地は幕府に没収されて、旗本山内家は絶家となる。領民に貸与していた1500両も取り立てることはできず領民は安堵したという。同年3月15日、将軍徳川綱吉御目見する。同年12月27日、従四位下、民部大輔に叙任する。元禄13年(1700年)11月12日、豊昌の死去により家督を継ぐ。同年12月21日、侍従に任官する。元禄15年(1700年)、池田綱政の娘菊姫と再婚する。

藩政においては風水害、城下の火災などに苦しめられた。このため、領民に対して救済措置をとり、元禄16年(1703年)には藩財政再建を目指して藩札を発行し、分家の山内規重(2代藩主山内忠義の弟重昌の裔)を奉行として登用し、緊縮財政政策を採用した。また、谷秦山を登用して学問を奨励するなどしたが、藩財政再建には失敗した。

宝永元年(1704年)7月2日、一族の山内豊成に蔵米1000俵を支給し、旗本にする。宝永3年(1706年)6月7日に死去、享年35。跡を弟の豊隆が継いだ。

墓所は国史跡の土佐藩主山内家墓所[2]高知県高知市筆山町)で公益財団法人土佐山内記念財団が管理団体となっている[1]。山内家墓所の北側(高知市天神町)には筆頭菩提寺の真如寺が位置する[1]

系譜

脚注

  1. ^ a b c 国史跡土佐藩主山内家墓所整備事業概要(令和2・3年度)”. 公益財団法人土佐山内記念財団. 2025年2月6日閲覧。
  2. ^ 山内家墓所”. 高知県立高知城歴史博物館. 2025年2月6日閲覧。




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山内豊房」の関連用語

山内豊房のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山内豊房のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの山内豊房 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS