南学の復権
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兼山の失脚後、土佐藩では伊藤仁斎の義弟緒方宗哲(1646年 - 1723年)を招き、学風を一新した。この当時、仁斎の門下、土佐の人陶山南濤(?~1766年)があって『水滸伝』を研究するなど、古義学は高知にひろい影響を与えたらしい。宗哲は藩主山内豊房の命によって地書『土佐国州郡志』を撰した。 一時、古義学の風を受けた土佐の学問であったが、その後、谷秦山があらわれるに及んで、ふたたび南学(朱子学)の興隆を見ることになる。谷秦山(1663年 - 1718年、名「重遠」)は長岡郡岡豊の人。代々岡豊八幡宮の神職を勤める家に生まれた(同姓ではあるが谷時中との親類関係はない)。17歳にして京都に上り、はじめ山崎闇斎、ついで浅見絅斎に師事し、さらに土佐に戻って後、書簡によって渋川春海に天文、暦学、神道を学び、多彩な才能を発揮した。藩主山内豊房に登用され、藩士に講義を行うが、豊房死後の政変によって、晩年10年余に及ぶ蟄居を命じられる。その学風は闇斎を継承し、さらに徹底した日本中心主義をうたうもので、幕末の志士たちに大きな影響を与えた。子にあたる谷垣守が賀茂真淵の教えを受けたのも、このような谷家の学風を背景とうするものであって、決して故なしとはしない。著作ははなはだ多いが、特に高知に関するものとしては式内社を考証した『土佐国式社考』(1705年成立)があり、文学的なものとしては幡多郡に野中兼山の遺児を訪ねた折の『西遊紀行』や『吸江十景詩』(1703年)が知られる。和歌にもたしなみがあり『秦山詠草』(1735年編)が伝えられる。 秦山は歴史を好み、また郷土に対する関心も深かった。このような学風は門下にも受けつがれ、歴史書、地誌、各種の記録文学などがさかんに作られるようになった。門下の奥宮正明(1648年 - 1726年)は、宝永の大地震の惨禍を記録した『谷陵記』(1707年ごろ)、史料集『土佐国蠧簡集』(1726年)、長宗我部地検帳を整理した『秦士録』などを著した。代官という職業を生かした地誌的な著述に特色がある。また、秦山の弟子宮地静軒の学を受けた植木惺斎(1686年 - 1774年)は『土佐国水土私考』『土佐国淵岳志』などの地誌のほか、家中、庶民の家門の浮沈を書きとどめた『陸沈奇談』(1751年)を記している。このほか秦山門下の著作としては、沢田弘列『万変記』、斎藤実純『明君遺事』、安養寺禾麿『土佐幽考』、入江正雄『詒謀記事』がある。また、やや秦山周辺の人物として、大原富枝の小説で知られる野中婉(1660年 - 1725年)がおり、女訓書的随筆『朧夜の月』をあらわしている。 秦山の跡を嗣いだのは、谷垣守(1698年 - 1752年)であった。家学によって儒学、神道を学んだほか、延享元年(1744年)には賀茂真淵に入門して和歌も修めた。高知における中央歌壇との交渉の嚆矢であり、垣守以降、谷家は土佐において国学、和歌の家として地歩を占めるようになる。著作には神道書『神代事蹟抄』のほか、人の鑑となるべき徳行を集めた『土佐国鏡草』(1734年)がある。また、奥宮正明『土佐国蠧簡集』の編纂に協力し、その拾遺を編んだほか、『秦山集』など父の著作をまとめることにも力を尽くした。 以上、南学の系譜に属する文人を取りあげたが、概して言えばこれらの人々は儒者としての意識がつよく、風流風雅の文を以て世に立つという考えかたはきわめて薄かった。したがって、その著作も多くは思想書、歴史書、記録類であって、文学性はかならずしも高くない。漢詩は盛んに作られたが、これもまた古文辞派や性霊派など近世後期の新しい文学潮流のなかでつくられた漢詩作品に比べれば、評価は低い。南学はあくまで経学の範囲にとどまって、近代的な意味での文学とはなり得なかったのである。
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