さい‐ゆう〔‐イウ〕【西遊】
せい‐ゆう〔‐イウ〕【西遊】
西遊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/15 02:50 UTC 版)
敬首が当麻曼荼羅について講義する際、諸本の異同について疑問を呈したため、寛保3年(1743年)奈良に伝来する平安時代中期頃の作品を入手し、延享2年(1745年)には諸本調査のため上方に旅立った。明兆が山水画の着想を得たという東福寺を訪れることも旅の目的だった。 5月15日二上山當麻寺を訪れて当麻曼陀羅4本を調査した後、京都に戻り、6月23日禅林寺本を拝観、7月15日大雲院義淵竜から『当麻重新曼荼羅縁記』を授けられ、源信作と伝わる30本以上を調査した。8月当麻寺を再訪し、北宝院恵音法印から変相の秘伝を伝授された。当麻寺曼陀羅堂厨子内の文亀本は損傷が激しかったため、義山・性愚による貞享4年(1687年)本への掛け替えを提案し、10月知恩院入信院で絵仏師洞玄に修復を依頼し、原本になかったと思われる金泥を除去した上、延享3年(1746年)2月厨子内に安置された。
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西遊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 17:57 UTC 版)
30歳を迎えた南谿は天明2年(1772年)の4月に門人である文蔵を従者として西遊の旅に就いた。途中の名所旧蹟を巡りつつ山陽道を下り、関門海峡を渡って九州に上陸して長崎に至り、そこで20日間程滞在して異国(清・オランダ)の事物を見聞、同地で盂蘭盆(7月15日)を迎えた後にさらに南下して翌月15日までには薩摩藩鹿児島に至り、薩摩藩には年越しを迎える等、およそ半年近く滞在することとなる。南谿は薩摩藩主島津家の一門である加治木島津家の当主で時の藩主重豪の従弟に当たる島津久徴と文人としての交流があったらしく、長期にわたる滞在からその訪薩自体が久徴の招きによるものであったと推察される。同地滞在中に南谿は高千穂峰の登頂をはじめ、薩摩藩領である薩隅日3国(薩摩、大隅、日向)の各地を巡遊しており、『西遊記』全編を通して薩摩藩領における見聞記録が多く記されているが、それは薩摩藩が南谿訪薩の10年ほど前、宝暦末年(1760年代)以降に藩主重豪による開放政策が取られるまで長らく他国からの入国を規制していたために、当時その風俗や自然環境が京を始めとする他地方に伝えられることが少なかった点にあったと考えられる。 天明3年2月に鹿児島を発って帰洛の旅に上るが、途中肥後国人吉で人吉藩藩主相良長寛の若殿(義休か)の療治に当たり、そのほかにもおよそ50日にわたって医者として同地での診療に従事している。3月下旬に人吉を発して熊本に上り、そこから九州を横断して豊後国佐賀関から伊予国八幡浜へ渡り、同国松山から船上の人となって航路で瀬戸内海を東上し、同年夏に帰京した。また、寛政9年の冬には南紀を巡遊している。なお、人吉滞在中には青井信濃守(時の青井の宮の宮司)宅に寄寓していたが、同宅には同じく儒学修行のために寄宿していた丹生養軒(にぶようけん)がおり、滞在中に彼に医学を教授した縁から南谿帰京後に養軒も上京して門人となり、この主従で東遊の旅に出ることとなる。
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西遊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 02:20 UTC 版)
天明3年(1783年)3月末から9月にかけて、山陽、九州を巡り、『西遊雑記』を著した。岡田村を3月末に出立、備中、備後、安芸、長門を通って九州に渡り、豊前、日向、大隅、薩摩に入って鹿児島に到着、肥後、豊後、肥前を経て長崎に至り、帰路についた。
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