縁記
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戦国時代半ばを過ぎたころ、篠木荘の関田から出川までの地方を拠点にした曽呂利という族に、惣八(宗八)という親分がいた。惣八は野盗の大親分であり、一般にスッパと呼ばれる忍者の類でもあった。逸話では出川と大泉寺の間の、街道を通る旅人に、土をかつがせ富士塚を作らせたというものがある。惣八は延徳元年(1489年)に病死したが、そのとき党の者が大草村の福厳寺にいる盛禅和尚を呼び引導を頼んだ。すると天が曇りだし、雷鳴が鳴り響いて、車軸を流す勢いの大雨となった。その時、黒雲の間から怪物が、口から火を吹きながら棺に襲いかかった。惣八の家来は逃げたが、和尚は棺の上に座ったまま身動きもせずお経を唱えた。怪物は、和尚のえらさに驚いて逃げ去り、天は青空になった。関田にある曽呂利塚は、惣八を葬った墓であり、円福寺にある陣太鼓、高蔵寺にある太刀は、いずれも惣八の所持していたものであると伝えられている。今でも、雨の降る晩に、惣八の亡霊が鬼火を灯し、内津川の堤防を行ったり来たりすることもあるという。
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縁記
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「黒白の狐-林昌寺縁記」の記事における「縁記」の解説
外之原町の街道の左手に牛臥山林昌寺がある。廻間に住んでいた林昌則という人は、猟師であった。ある日、いつものように弓矢を持ち山深く入ったが、日が落ちてきたので帰ることにした。日が落ち空は暗くなり、星がまばらに出てきた。迷ってしまった。道の分かれ目もわからない。月が出るのを待つうちに、いつとはなく眠ってしまった。何となく、あたりにぱっと光がさしたので驚いて目を覚ますと、月が出たのではなく、こぶし大の赤い火の玉が次第に自分に近づいてくる。何とも不思議な光物であった。このような物を見たのは初めてだった。きっと狐か狸のしわざだと思い、弓に矢をつがえ放った。矢が火の玉を射貫くと、たちまち火の玉は二つに割れて、次第に燈火のようにうすれてしまった。不思議に思いそばへ寄ると、一匹の黒白の狐が、矢を口にふくんで、何かを語るような様子であった。昌則は五体のしびれを感じ、「ああもったいない、臥牛山の主だったのですか、そうとは知らず矢を射ったことをお許しください。」と弓を投げ捨てて大地にひれ伏して礼拝すると、不思議なことに、目の前にいた黒白の狐の姿が消えてしまった。これはきっと臥牛山の主だったのだと考え、頂上に登ってみると東のすみに一個の石室があった。よく見ると先ほど放った矢と稲荷大明神の立像だったので、一層確信を深め罪の中で殺生より重いものはないということを理解し、このことを縁に今後は決して殺生はしまいと神前に誓い、その場に弓矢を投げ捨てて礼拝し、月の光を頼りに自分の里に帰った。そして悟りを得て、名を観空由公と改めた。後に、ふと初心の事を思い出し、ゆかりの地である臥牛山の麓の虎藪に一堂を建てて薬師如来を安置した。里人たちはこれを聞き、殊勝なことと食べものなどを与えたので、昌則は喜び念仏三昧に入り、九十二才でこの世を去った。この夜、不思議なことに臥牛山に狐火が現れ、全山を包むがごとき奇観を呈したということである。 牛臥山稲荷神社 牛臥山稲荷神社の鳥居
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