曽呂利惣八
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曽呂利惣八(そろりそうはち)は、愛知県春日井市から小牧市にかけて語り継がれている、盗賊の伝承である。
縁記
戦国時代半ばを過ぎたころ、篠木荘の関田から出川までの地方を拠点にした曽呂利という族に、惣八(宗八)という親分がいた。惣八は野盗の大親分であり、一般にスッパと呼ばれる忍者の類でもあった。
逸話では出川と大泉寺の間の、街道を通る旅人に、土をかつがせ富士塚を作らせたというものがある。
惣八は延徳元年(1489年)に病死したが、そのとき党の者が大草村の福厳寺にいる盛禅和尚を呼び引導を頼んだ。すると天が曇りだし、雷鳴が鳴り響いて、車軸を流す勢いの大雨となった。その時、黒雲の間から怪物が、口から火を吹きながら棺に襲いかかった。惣八の家来は逃げたが、和尚は棺の上に座ったまま身動きもせずお経を唱えた。怪物は、和尚のえらさに驚いて逃げ去り、天は青空になった。関田にある曽呂利塚は、惣八を葬った墓であり、円福寺にある陣太鼓、高蔵寺にある太刀は、いずれも惣八の所持していたものであると伝えられている。
今でも、雨の降る晩に、惣八の亡霊が鬼火を灯し、内津川の堤防を行ったり来たりすることもあるという。[1][2]
『兵家茶話』にも曽呂利惣八の話が登場する。同書では、惣八が篠木庄出川村の盗賊であり「すつは」と呼ばれたこと、息子の於松が信長に仕え本能寺の変後に帰郷して死去したことが記される。また、熊坂長範の伝説が惣八に当てはめられ、時代が経つにつれて両者が混同された可能性が指摘されている[3]
遺品
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ここでは遺品について説明する。[4]
参考文献
- 『春日井の昔話』春日井市教育委員会、1975年
- 『春日井のむかし話 下』春日井郷土史研究会、2014年
- 『春日井郷土史第4号』春日井郷土史研究会、2018年
- 『尾張名所図会』愛知県郷土資料刊行会、1970年
- 『尾張徇行記』樋口好古、1792 - 1822年編纂
脚注
関連項目
- 曽呂利惣八のページへのリンク