縁談を断る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:25 UTC 版)
帰国した翌年の明治16年(1883年)、梅子はアメリカのランマン夫人、及び上野栄三郎(梅子の姉琴子の夫)の二人から、アナポリス海軍兵学校出身の海軍士官(海軍大尉)で、「武人たる神学者」と呼ばれた敬虔なクリスチャンである世良田亮(せらた たすく。梅子より8歳年上。梅子は留学中に世良田と知り合っていた)との結婚を再三勧められた。瓜生外吉(海軍大尉。世良田とはアナポリスの同期生で親友。外吉と世良田は、同じ時期に同じ経緯でクリスチャンになった)・瓜生繁子夫妻も、二人の結婚を取り持とうとした。 ランマン夫人と上野は、いずれもアメリカ留学中の世良田に会って好印象を持ち、繁子がアメリカで出会った外吉と幸せな結婚生活を築いていることからも、世良田は梅子の配偶者にふさわしい、と考えた模様である。 しかし梅子は世良田との縁談を断り、ランマン夫人への手紙に 「どうぞセラタ氏のことはもう書かないで下さい。」(明治16年5月26日付、原文は英語、大庭みな子による和訳、) 「もうこの話題は終りにしたい。私がもう一度掘りおこしたいと思うのでなければ、これが最後です。」(明治16年6月10日付、原文は英語、亀田帛子による和訳、) などと書き送った。
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