瓜生繁子とは? わかりやすく解説

瓜生繁子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/02 14:27 UTC 版)

瓜生 繁子(うりう[注釈 1] しげこ、1861年文久元年)4月29日[1][2](旧暦3月20日[1][注釈 2]) - 1928年昭和3年)11月3日[4])は、日本華族。教育者。ピアニスト


注釈

  1. ^ 「瓜生」の読み方については瓜生外吉を参照。
  2. ^ 繁子の実兄である益田孝が、1928年(昭和3年)に繁子が死去した直後に書いた「故瓜生繁子追悼紀念記」には生年月日が「文久元年(1861年)5月7日」と記載されている[1][3]。しかし生田澄江は、生年月日は「文久元年(1861年)3月20日」が正しい、としている[1]
  3. ^ 繁子の義父となった永井玄栄と、玄栄の長男で繁子の義兄となった永井久太郎については、樋口雄彦沼津市明治史料館)による研究成果がある[15]
  4. ^ 「繁子は、健康を害していた為もあり、ヴァッサー大学への在学期間を1年短縮して明治14年に日本に帰国した」という趣旨の記述が複数の文献に見られる[27]。生田澄江は、「この趣旨の記述は、山崎孝子『津田梅子』(人物叢書、吉川弘文館、初版は1962年)が初出と思われるが、繁子が1881年(明治14年)の帰国の前後に健康を害していた形跡は認められず、山崎の創作であろう」という趣旨を述べている[27]
  5. ^ 1904年(明治37年)にミス・エレン・アボットから、海軍少将として日露戦争に参戦している夫の外吉の仁川沖海戦での武勲を祝い、武運を祈る手紙が届いた[31]。その5年後の1909年(明治42年)に繁子は外吉と共にアメリカ東部を訪問しているが[32]、フェアヘイブンに行ってエレンと再会したという記録は無い。
  6. ^ 文部省辞令の文面は「音楽取調掛ニ於テ教授向ヲ嘱託シ年俸金三百六拾圓給与ノ事」[39]
  7. ^ Urbach, Karl (1877). Preis-Klavierschule für den ersten Unterricht. Leipzig: Siegismund & Volkening.[41]
  8. ^ Urbach, Karl. Prize Piano School. New York: Edward Schuberth.
  9. ^ 世良田は1856年(安政3年)に生まれ、父は信濃国上田藩の藩士だった。外吉とはアナポリス海軍兵学校で知り合い、繁子・大山・津田ともアメリカ滞在中に知り合っている。繁子が外吉と結婚した後は梅子の配偶者に擬された[48][50]。海軍少尉だった1900年(明治33年)8月に病死、満43歳没。
  10. ^ 官立東京高等女学校は、1890年(明治23年)に女子高等師範学校へ吸収合併された[53]
  11. ^ 大日本帝国海軍では、海軍兵学校の卒業席次を基礎としたハンモックナンバー(兵学校同期生間の先任順位)が進級と補職に大きく影響した。
  12. ^ 上田悌子は、1857年(安政4年)生まれとされる[68]

出典

  1. ^ a b c d e 生田 2017, 第1章 生い立ちと渡米:生い立ち
  2. ^ Keisan(カシオ計算機)」で西暦に換算した。
  3. ^ 生田 2017, 第7章 日米関係の改善に尽して:兄・鈍翁の悲しみ
  4. ^ a b 生田 2017, 第7章 日米関係の改善に尽して:その死-祝祭の歌流れる日
  5. ^ a b 生田 2003, pp. 10–12, プロローグ 永井繁子を知っていますか
  6. ^ 『明治の女子留学生:最初に海を渡った五人の少女』書籍紹介”. 平凡社. 2022年4月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月28日閲覧。
  7. ^ a b 寺沢 2009, pp. 132–135, 第6章 帰国女子留学生の困惑と苦悩:繁子の結婚を望まないという梅子
  8. ^ a b c 飯野 2000, pp. 93–95, 第4章 瓜生繁子-青春を共有した友として(亀田帛子):おわりに-お互いを心の支えとして
  9. ^ 日本洋琴演奏小史:第1部 東京音楽学校の1909年事件と プロイセン王立ベルリン音楽大学”. ピティナ(一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会). 2022年5月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月5日閲覧。
  10. ^ 飯野 2000, pp. 72, 第4章 瓜生繁子-青春を共有した友として(亀田帛子):はじめに
  11. ^ 生田 2003, pp. 8–9, 刊行に寄せて(法政大学名誉教授 安岡昭男)
  12. ^ 寺沢 2009, pp. 208–210, 第10章 わが道を歩む女子留学生たち:音楽教師の職と夫への内助と子育ての三役をこなす繁子
  13. ^ a b 元 津田塾大学教授 亀田帛子. “瓜生繁子 生誕150年特別講演会:瓜生繁子とその時代” (PDF). 小田原市. 2022年4月15日閲覧。
  14. ^ 亀田 2005, p. 14
  15. ^ 樋口雄彦. “永井玄栄と永井久太郎:シリーズ 沼津兵学校とその人材 90:沼津市明治史料館通信 104号(2011年1月)” (PDF). 沼津市明治史料館. 2022年5月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月5日閲覧。
  16. ^ a b c d e f g h 橘木 2022, pp. 168–190, 第5章 山川捨松と永井繁子:2 音楽家、妻、母として生きた繁子
  17. ^ 松野 1990, p. 104
  18. ^ 今井 1985, p. 8
  19. ^ a b 生田 2003, pp. 33–36, 第2章 アボット・スクール時代:ホスト・ファミリーのアボット家
  20. ^ a b c 生田 2003, pp. 37–43, 第2章 アボット・スクール時代:アボット・スクールの教育-エレン校長
  21. ^ a b 生田 2003, pp. 52–54, 繁子のキリスト教との出会いーみこころのままに
  22. ^ 生田 2017, 第2章 アボット・スクール時代:海軍士官・瓜生外吉との恋
  23. ^ 半藤 2013, 位置No. 873 - 888, 瓜生外吉 米海軍に育つ
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  25. ^ 生田 2003, p. 99, (画像)1881年6月20日のコンサートのプログラム表紙
  26. ^ 寺沢 2009, pp. 91–94, 第4章 五人の別離とアメリカでの新しい生活:山川捨松と永井繁子はともにバッサー大学に入学
  27. ^ a b c d e 生田 2017, 第3章 ヴァッサー・カレッジ時代:アメリカの音楽教育事情
  28. ^ 生田 2003, pp. 79–80, 第3章 ヴァッサー・カレッジ時代:繁子のカレッジ・ライフ
  29. ^ 生田 2003, pp. 90–98, 第3章 ヴァッサー・カレッジ時代:学内コンサートと繁子
  30. ^ a b 生田 2003, pp. 98–101, 第3章 ヴァッサー・カレッジ時代:最後のコンサート-繁子ショパンを弾く
  31. ^ 生田 2017, 第6章 瓜生家の日露戦争:旅順港閉塞作戦
  32. ^ 生田 2017, 第7章 日米関係の改善に尽して:第二の故郷アメリカ訪問・アナポリス再訪・私たちは幸福です
  33. ^ 生田 2017, 第2章 アボット・スクール時代:捨松との日々
  34. ^ 生田 2017, 第4章 文部省音楽取調掛:帰国-日本語を忘れて
  35. ^ 飯野 2000, 第4章 瓜生繁子-青春を共有した友として(亀田帛子):2 帰国後:兄益田孝と繁子
  36. ^ 生田 2017, 第5章 二つの官立学校の教授として:思いがけない外吉の禁固刑
  37. ^ a b 生田 2017, 第6章 瓜生家の日露戦争:武雄の海軍兵学校入学
  38. ^ 遠藤宏『明治音楽史考』(有朋堂、1948年)。
  39. ^ a b c 生田 2003, pp. 122–125, 第4章 文部省音楽取調掛:繁子音楽取調掛洋琴教師となる
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  41. ^ Musikalisch-literarischer Monatsbericht. Leipzig: Friedrich Hofmeister. (1877). p. 328. http://anno.onb.ac.at/cgi-content/anno-buch?apm=0&aid=1000001&bd=0001877&teil=0203&seite=00000328&zoom=1 2021年2月10日閲覧. "Urban [sic], Karl, Preis-Klavierschule f. den ersten Unterricht. Leipzig, Siegismund & Volkening Mk 3 n." 
  42. ^ 辻, 鹿戸 & 田中 2017, p. 30.
  43. ^ 前間 & 岩野 2001, pp. 17–19, 鹿鳴館の花.
  44. ^ 橘木 2022, p. 199
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  46. ^ a b c 飯野 2000, pp. 79–81, 第4章 瓜生繁子-青春を共有した友として(亀田帛子):2 帰国後:繁子の結婚
  47. ^ 飯野 2000, pp. 79–81, 第4章 瓜生繁子-青春を共有した友として(亀田帛子):2 帰国後:繁子の結婚
  48. ^ a b c 飯野 2000, pp. 81–82, 第4章 瓜生繁子-青春を共有した友として(亀田帛子):2 帰国後:瓜生家-若者たちのサロン
  49. ^ a b 生田 2017, 第7章 日米関係の改善に尽して:瓜生家跡を尋ねて
  50. ^ a b 生田 2017, 第4章 文部省音楽取調掛:海軍中尉瓜生外吉との結婚
  51. ^ 生田 2017, 第4章 文部省音楽取調掛:鹿鳴館のたそがれ
  52. ^ a b c 亀田 2005, pp. 71–73, 第3章 帰国から再留学まで:2 永井繁子の結婚と繁子周辺の人々
  53. ^ a b c 生田 2017, 第5章 二つの官立学校の教授として:日本一高給取りの女性シゲ
  54. ^ 生田 2017, 第4章 文部省音楽取調掛:森有礼の欧化教育
  55. ^ 生田 2017, 第5章 二つの官立学校の教授として:祝祭日唱歌の審査委員
  56. ^ 生田 2017, 第5章 二つの官立学校の教授として:東京音楽学校教授を辞する
  57. ^ 生田 2017, 第6章 瓜生家の日露戦争:期待の星・瓜生武雄
  58. ^ 生田 2003, pp. 133–135, 第4章 文部省音楽取調掛:結婚披露宴
  59. ^ a b 生田 2003, pp. 223–225, 第7章 日米親善:私たちは幸福です
  60. ^ 生田 2003, pp. 236–238, 第7章 日米親善:繁子祖母様のことなど
  61. ^ 生田 2003, 第7章 日米親善
  62. ^ 生田 2017, 第5章 二つの官立学校の教授として:日清戦争と繁子
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  64. ^ 津田塾の歴史”. 津田塾大学. 2022年4月15日閲覧。
  65. ^ 生田 2017, 第5章 二つの官立学校の教授として:「チヤフル」な先生
  66. ^ 秋山 1985, p. 87
  67. ^ a b c 生田 2017, 第7章 日米関係の改善に尽して:「華盛頓以来の懐かしき団欒」
  68. ^ 寺沢 2009, pp. 17–20, プロローグ-岩倉遣外使節団の出帆:見送りの人たちの目をひいた振袖姿の五人の少女
  69. ^ 寺沢 2009, pp. 115–118, 第5章 女子留学生派遣後の日本の家族:上田悌子は東京の医者と結婚
  70. ^ 寺沢 2009, pp. 115-118。.
  71. ^ 今井 1985, p. 14
  72. ^ 生田 2003, pp. 263–264, エピローグ:夫妻の墓を訪れる


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