瓜生繁子
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瓜生 繁子(うりう[注釈 1] しげこ、1861年(文久元年)4月29日[1][2](旧暦3月20日[1][注釈 2]) - 1928年(昭和3年)11月3日[4])は、日本の華族。教育者。ピアニスト。
注釈
- ^ 「瓜生」の読み方については瓜生外吉を参照。
- ^ 繁子の実兄である益田孝が、1928年(昭和3年)に繁子が死去した直後に書いた「故瓜生繁子追悼紀念記」には生年月日が「文久元年(1861年)5月7日」と記載されている[1][3]。しかし生田澄江は、生年月日は「文久元年(1861年)3月20日」が正しい、としている[1]。
- ^ 繁子の義父となった永井玄栄と、玄栄の長男で繁子の義兄となった永井久太郎については、樋口雄彦(沼津市明治史料館)による研究成果がある[15]。
- ^ 「繁子は、健康を害していた為もあり、ヴァッサー大学への在学期間を1年短縮して明治14年に日本に帰国した」という趣旨の記述が複数の文献に見られる[27]。生田澄江は、「この趣旨の記述は、山崎孝子『津田梅子』(人物叢書、吉川弘文館、初版は1962年)が初出と思われるが、繁子が1881年(明治14年)の帰国の前後に健康を害していた形跡は認められず、山崎の創作であろう」という趣旨を述べている[27]。
- ^ 1904年(明治37年)にミス・エレン・アボットから、海軍少将として日露戦争に参戦している夫の外吉の仁川沖海戦での武勲を祝い、武運を祈る手紙が届いた[31]。その5年後の1909年(明治42年)に繁子は外吉と共にアメリカ東部を訪問しているが[32]、フェアヘイブンに行ってエレンと再会したという記録は無い。
- ^ 文部省辞令の文面は「音楽取調掛ニ於テ教授向ヲ嘱託シ年俸金三百六拾圓給与ノ事」[39]。
- ^ Urbach, Karl (1877). Preis-Klavierschule für den ersten Unterricht. Leipzig: Siegismund & Volkening.[41]
- ^ Urbach, Karl. Prize Piano School. New York: Edward Schuberth.
- ^ 世良田は1856年(安政3年)に生まれ、父は信濃国・上田藩の藩士だった。外吉とはアナポリス海軍兵学校で知り合い、繁子・大山・津田ともアメリカ滞在中に知り合っている。繁子が外吉と結婚した後は梅子の配偶者に擬された[48][50]。海軍少尉だった1900年(明治33年)8月に病死、満43歳没。
- ^ 官立東京高等女学校は、1890年(明治23年)に女子高等師範学校へ吸収合併された[53]。
- ^ 大日本帝国海軍では、海軍兵学校の卒業席次を基礎としたハンモックナンバー(兵学校同期生間の先任順位)が進級と補職に大きく影響した。
- ^ 上田悌子は、1857年(安政4年)生まれとされる[68]。
出典
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- ^ 寺沢 2009, pp. 115-118。.
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- ^ 生田 2003, pp. 263–264, エピローグ:夫妻の墓を訪れる
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